発見!今週のキラリ☆

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2013年4月 アーカイブ

vol.157 「涙の記憶」 by 野口博美


4月のテーマ:涙

大人になると子どもの頃と比べて号泣することは少なくなると思う。思い返してみても、例えば失恋や仕事で嫌なことがあった時もちょっぴり涙がこぼれる程度だった。映画を観ていて感動シーンに涙しても、エンドロールが終われば余韻に浸りつつ、何でもない顔で映画館を後にすることが多い。では最後にものすごく泣いたのはいつだろうかと考えると中学の卒業式だったような気がする。

友達と遊んだり、部活動にいそしんだり、それなりに楽しかった中学時代ではあったけれど、それほどクラスメートたちと別れるのが悲しかったわけではない。にもかかわらず卒業式の最中、私と、同じクラスの割と仲のよかった数人だけが卒業証書を受け取るのもままならないほど号泣してしまった。
子の成長を涙ながらに見守っているはずの母親からも「あんなに泣くなんて、見ていて恥ずかしかったわ」とか言われて「確かにそうだよね」と我に返ると不思議な気分になった。
もし当時の映像が残っていても絶対に見たくない。当たり前だが、その日に撮ったどの写真を見ても泣きはらしたはれぼったい目をしたブサイクな私が写っている。
しかも悲しいことに、今でも親交のある中学時代の友人はいない...。

SNSを活用する友人から「小学校時代の同級生とつながった!」などと楽しげな話を聞くことがある。そういった類のシステムにまるっきり疎い私だが、近いうちにマスターして、かつての友人に「あの時の涙は何だったんだろうね?」と聞いてみたい。

vol.158 「お涙頂戴」 by 小笠原ヒトシ


4月のテーマ:涙

涙、または涙を流すという生理現象が、映画やテレビをはじめ多くのエンターテイメントの世界ではキーワードとなっている。

特に宣伝においては、「涙なくしては観ることができない」というキャッチコピーがあったかと思えば、映画を見終えた観客(もしくはそういう設定の役者)が「もう感動して涙が止まりませんでした」とか言っているコマーシャルがある。「汗と涙の結晶」というフレーズには、どんな結晶だとツッコミたくなる。

どうもこうした感情を押しつけるような宣伝には、なじめない。宣伝する側が、その映画がどんなストーリーで、どんな俳優が演じているのかという情報だけでは、その作品の魅力を十分に伝えきれないと思ってるのだろうか。はたまた観客自身が、誰かの意見や感想を聞いてからではないと、観るかどうかの判断を下せなくなってしまったのか。

そういう自分も、ネット通販やレストランガイドのサイトを見るときは、必ずコメント欄をチェックして誰かの意見を参考にしているが、それは製品のスペックと値段を客観的に比較しているのであって、他人の抱いた感情を押しつけられていることとは違うのだ。

そこにいくと同じく「涙」をうたい文句にしているものであっても、昔ながらの「お涙頂戴」というフレーズは潔い。思い切りがよい。一般的には「この映画はお涙頂戴の映画でして...」などと言おうものなら、俗っぽい、安っぽい、みみっちいというマイナスイメージが強烈で、むしろ嫌悪感を抱かれてしまうのだろうが、「私は泣いたけど、あなたが泣くかどうかは分からないわ」という中途半端なことは言っていない。「観客を泣かせるように作っています」という明確なメッセージが届いてくる。「頂戴」、すなわち「泣いてください、お願いします」とへりくだってさえいて、実に吹っ切れているのだ。

いずれにせよ、笑ったり、悲しかったり、感動したりして涙を流すような映画やテレビドラマに出会えればよいのだが、あくびをしり、目にゴミが入ったりしたりするときに出る涙でなければ、良しとしよう。