銀幕の彼方に

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第11回 『追憶(The Way We Were)』(1973年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって54歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。



【作品解説】 本年5月26日、癌により他界した映画監督シドニー・ポラックの作品です。1973年のアカデミー賞6部門にノミネートされ作曲賞と歌曲賞の2部門でオスカーに輝きました。バーブラ・ストライサンドが歌う主題歌「追憶のテーマ」は、永遠に歌い継がれるであろうラブ・バラードの名曲です。主演はバーブラ・ストライサンド(ケイティー役)とロバート・レッドフォード(ハベル役)。第二次世界大戦前から戦中、戦後、その後ハリウッドを中心に吹き荒れた赤狩りの時代を背景とし、2人の恋愛模様を描いています。
この映画の中でケイティーは共産主義を支持する運動家として、戦前は大学内で活動し、卒業後も働きながら運動を展開していきます。ハベルとは一度結婚するのですが、運動家としての考え方を捨てることができずに結局離婚してしまいます。
実はこの映画の公開当時、ガールフレンドと映画を見に行ったのですが、前夜の友人との飲み会で深酒をしてしまい、映画が始まるとともに高いびき...、記憶に残っているのはケイティーが路上でチラシを撒くラストシーンのみ、というお粗末さでした。
監督が名匠ポラックであったこと、学生のとき在籍していたバンドで「追憶のテーマ」のソロプレイを担当したこともあったので、当初は軽い気持ちでこのコラムに取り上げてみようと、作品を見直しました。
ところが、声高に共産主義の理想を叫ぶケイティーの姿に、私は先の大戦に翻弄された一人の人間の人生をいつの間にか重ね合わせていました。その強烈な想いを、最後のシーンに至るまで消し去ることができなかったのです...。


極限状態の人間を支えるものとは


太平洋戦争が終結してほぼ5年が経ち、戦後の混乱もやや落ち着いてきた昭和25年9月25日。広島県広島市の広島港宇品地区に一艘の大型復員船が、ゆっくりと接岸した。
やせこけて埃にまみれた大勢の人々が次々と下船してきた。中国からの引揚者とか、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦: 現ロシア)に抑留(捕虜となり強制労働に従事させられる状態)されていた人たちが、この船の乗客のほとんどであった。
彼らは祖国の土を再び踏むことができた喜びに沸きかえっている。ある者は家族と抱き合い、ある者は再会を果たした妻と向き合って佇んでいる。妻は手ぬぐいで顔を覆い嗚咽をこらえている...。そんな光景が埠頭にあふれかえっていた。

そしてその群衆の中に、身長5尺5寸(165cm)、やせこけてはいるが眼光は鋭く、背筋をまっすぐに伸ばした一人の復員兵がいた。
当時33歳、元陸軍衛生兵の村岡清(ムラオカキヨシ)。
私の父である。

父は生きては二度と踏めぬと思っていた祖国の土の上に今立っていた。感慨もひとしおであろうとと思いきや、顔色はなぜかすぐれない。
父を含めたソ連からの引揚者の周囲を、大勢の警官が取り囲んでいる。引揚者は周囲の日本人と全く接触させてもらえない。その後それぞれの故郷に向かうのだが、警官たちもその列車に乗り込むのだ。つまり、ソ連からの引揚者は監視下に置かれ、他の乗客から隔離されているのである。周囲との会話は厳禁。まるで罪人であった。
父は、今でもその事を話すときに悔しい表情を見せる。

ソ連からの引揚者は、なぜこのような差別ともいえるような不等な扱いを受けたのか。それを述べる前に、当時の日本の状況を見てみよう。

1945年8月10日に日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日正午には、昭和天皇による「戦争終結の詔書」、いわゆるラジオの玉音放送が全国民に向けて流された。終戦といえば聞こえはいいが、日本は敗戦国となったのだ。

その年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が東京日比谷の第一生命相互ビルに設置され、日本は実質的にアメリカの支配下に置かれた。この被占領状態はサンフランシスコ平和条約が発効され、GHQが廃止される1952年4月末まで継続することになる。日本の歴史の中で、日本の国土が他国に占領されたのは、後にも先にもこの一時期だけである。

戦後の国際社会は、アメリカ、ソ連の2大超大国の対立と牽制を軸として歩むこととなる。当時アメリカが最も恐れたのは、ソ連を支える思想であり、政治体制の根本を支えた共産主義の蔓延である。アメリカ国内においては、「赤狩り(レッド・パージ)」が行われ、共産主義者が排斥されていた。この動きはハリウッド映画業界で頂点を迎え、映画関係者の間に自主規制と密告がはびこる。「追憶」の中でも取り上げられたアメリカの脚本家10人(「ハリウッド・テン」と呼ばれる)の追放事件は、戦後アメリカ史上負の遺産として今も刻み込まれている。以前、私のコラムでも取り上げたが、「ローマの休日」、「ジョニーは戦場へ行った」の脚本家、ダルトン・トランボもその一人であった。
GHQの指示により、1950年からは日本でもレッドパージの嵐が吹き荒れた。その年の7月には報道8社で300人余りが、共産主義者とみなされ解雇された。
私の父がソ連から復員したのはその2ヵ月後、まさにレッドパージの只中であった。赤い国から帰国した者に当局が神経を尖らせたのには、それなりの理由があった。
国内でプロパガンダ活動を展開するのではないかとか、共産主義のシンパ(シンパサイザー:sympathizer 支持者)となりソ連に忠誠を誓ったスパイではないかなど、あらゆる疑いのまなざしが父らに向けられたことは、想像に難くない。

しかしそのような国情を復員したばかりの父は知る由もない。北海道の実家に着くまでの約2日間、周りからの好奇の視線を浴び続けた列車内で、当惑と屈辱、そして命まで捧げたはずのこの国への不信感が胸の中で渦巻いたことだろう。今を生きる我々には想像もつかない、複雑な感情が全身を支配していたに違いない。

実家へ戻った後も、警察官が何度となく訪れ、警察署へも何度か呼び出されて取調べを受けたという。心の平安を取り戻せたのは、さらに数ヶ月後、警察官の影がようやく周囲から消えてからだそうだ。

「追憶」の主人公、ケイティーがとりつかれた共産主義、その"総本山"に5年間抑留されていた父。
厳密に言えば、抑留された当時、父は兵役義務を終えていた。シビリアン(民間人)として旧満州国東安省(現在の中華人民共和国黒龍江省)に渡り、林口県公省行政科保健股(今で言う、県庁の行政部保健課)で、主に各種伝染病の防疫業務に従事していた。そのため、抑留中は、生粋の軍人ほどの過酷な労働条件を課せられなかったというが、それでもわずかなパンと、着のみ着のままの野ざらし生活は過酷であったという。同時期に抑留された600人の仲間は、最初の3ヶ月で500人にまで減ったそうだ。昨日まで話していた仲間が、朝目覚めると隣で冷たくなっていた、ということも何度もあったらしい。

遺骸を埋めようとするのだが、ツンドラ(永久凍土)のため深く掘ることができず、弔った翌日には、遺体は狼の群れによって掘り返され、全身をくまなく食べつくされて、骨だけになっていたという。

この状況下で父を支えたのは、恐らく、何があっても俺は死なない、俺だけは絶対に死なない、そして生きて日本に帰るという意志のみであったと、私は思う。日常的に死を目の当たりにし、宗教とか哲学とか倫理とか、所詮人間が生み出したに過ぎない観念を超越し、生き抜くことの本能的な意味に極限状態で向き合った人間にしかたどり着けない境地。父はそれを垣間見たような気がしてならない。
生き抜くことこそが勝利なのだと...。

先日、父の様子を見に久しぶりに実家に戻った。居間に通じるドアを開けると正面やや左に大きなサイドボードが置いてある。中には到来物の洋酒とか、ガラス製品、コーヒーカップなどが並べてある。その上に、見慣れない置時計があった。天然石とクリスタルを組み合わせた、重量のある豪華な時計である。
父に聞くと、福田から送られてきたという。どこの福田さん?と聞くと、これだ、といってA4ぐらいの一枚の紙を差し出した。文面は「先の大戦において...」の書き出しで始まっており、文末に目をやると「内閣総理大臣福田康夫」と署名があり、内閣総理大臣の大きな角印が赤々と押捺されていた。現職の総理大臣からの感謝状である。

現金と、置時計と、万年筆と、そのほかいくつかの贈答品の中から何がいいか選んでほしいというはがきが届き、父は形になって残るものがいいと、これを選んだ。
これだけ大きければ嫌でも目について、親父を思い出すだろうなと思い、急に可笑しくなった。
そして父をあれだけ苦しめた国からの贈り物であるのに、ありがたいことだといって素直に感謝し、受け取ってしまう父の心を思うと、60有余年という時の流れの無常さ、そして残酷さを感ぜずにはいられなかった。
ちなみに、父に贈られた時計は電波時計である。東北の某所から3時間ごとに発信される電波を受信し、そのたびごとに時刻を修正するから、日本標準時との誤差は「10万年に1秒」だそうだ。数ヶ月先の政(まつりごと)にも大いなる誤差を生じる現政府から、10万年後の精度を保証する時計が贈呈されるというのも、なかなかエスプリが効いている。

父は今年の1月で満91歳の誕生日を迎えたのだがまだまだ頭ははっきりしている。昔のことは本当によく記憶していて、ある日も会話の中で、「ハラショ・ラボーチ」などというから何のことか聞くと、ロシア語で「よく働く人、働き者」の意味だと教えてくれた。そう呼ばれる捕虜はロシア兵から厚遇されたそうである。ロシア語での日常会話にほとんど不自由しなかったと、いつも自慢げに語っている。
会話を覚えることでソ連兵と粘り強く交渉し、ラーゲリ(ロシア語で「捕虜収容所」)での待遇を少しずつ改善したのだという。たくましく、したたかに、1日でも生を長らえる可能性を押し広げていったのだという。
生を長らえること、それはすなわち帰国への執念、生きることと直結した望郷の念であった。それを果たしたことが、今日までの父を支えてきたことは、間違いない。

言論の自由を謳歌できる国では、今も昔も、熱病のごとく共産主義が目指す理想にとりつかれる、ある種の人々がいる。ケイティーもその一人である。彼女は手の届かぬ谷間に見出したその花を美しいと思った。しかしその茎に連なる棘が思いのほか鋭利であることを、彼女は知らない。