銀幕の彼方に

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2007年6月 アーカイブ

第1回 『まごころを君に (原題:Charly)』(1968年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「基礎コース・Ⅱ」に籍を置く受講生。北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"中。当年とって53歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。




このコラムでは、私の心に残る「アメリカン・ニューシネマ」の時代の作品について自由に綴ってみました。名作には、いつ観てもかならず新しい発見があります。古き良き映画の魅力に気づけば、新作の楽しみ方も広がるはず。そんな気持ちでこのコラムを楽しんで下さい。


■ "ハッピーエンド無き時代"の希望と絶望

知的障害を持つチャーリーはパン工場で働いている。日々仲間から馬鹿にされ、知能テストを受ければ実験用のねずみ、アルジャーノンにも劣るほど低い結果であった。 そんなある日、チャーリーは彼の通う夜学の先生の推薦で、脳手術の被験者に選ばれる。 手術は成功した。チャーリーの知能レベルは手術を施した学者の予測以上に高まった。新たな"知能"を手に入れ、幸せを掴めたかのように見えるチャーリーだったが・・・。

原作はダニエル・キースによる小説「アルジャーノンに花束を」。今日でも世界中に根強いファンを持つ異色の小説だ。この映画でチャーリーを演じたクリフ・ロバートソンは、第41回アカデミー賞で主演男優賞を獲得している。

チャーリーに脳手術を施した2人の学者が、その研究成果を学会で発表する場面がある。
チャーリーの知能は、当時としては「最高の科学者のレベル」にまで発達していた。そのため、発表後の会見の席に集まった科学者連中は、自らの知能では到達できていない疑問について、"天才"となったチャーリーに質問を浴びせかける。

将来、この世界はどうなるのか ? --。そんな難問に対しても、チャーリーは淀みなく答えていく...。

チャーリーの口から出た回答を、2007年の今、あらためて聞き直してみた。驚くべきことに、チャーリーの"予言"は、現在の社会の状況をほぼ正確に言い当てているのである。その具体的な内容に興味が湧いたという人は、ぜひ作品を観て確かめてほしい。

次に、役者の演技という視点でこの作品を見てみよう。クリフ・ロバートソン演ずる手術前のチャーリーは、言葉がスムーズに流れず、しゃべるたびに口元は歪み、動作は緩慢で目の焦点も定まっていない。映画とわかっていても同情の念を禁じえないほどのキャラクター作りは、まさに"主演男優賞クラスの演技"と言えよう。脳手術を受けた後に、知性を帯び、人格ごと変化していくチャーリーを完璧に演じきっているのにも脱帽だ。馬鹿にされていたチャーリーが、周囲の者たちに認められていくシーンは、何度見返しても痛快な気持ちになる。

この作品が優れているのは、人間の本質に関わる問題にも踏み込んでいる点にある。つまり、「知能と精神のバランスの問題」だ。

知識が身についても、精神面の成長がそれに追いつかない人間はどうなるのか--。この作品ではそれを、「チャーリーの目線」を示すカメラワークで赤裸々に表現している。卓越した知能を得ながら、ごくごく日常的な「性的な衝動」との葛藤で、心の均衡を失うチャーリー。その心象を、例えばカメラが女性を追うアングル ( チャーリーの目線 ) で、観る者に疑似体験させる。

当時の話題作、特に「ニューシネマ」と呼ばれた一連の作品群には、ハッピーエンドはまず期待できない。もちろんこの作品も例外ではない。「映画とは、その時代の空気を織り込み、反映するもの」という普遍の定義に従えば、この映画が生まれた時代は「美しいエンディングを容認できない時代」だったのだ。

1960年代後半、ベトナム戦争は泥沼化の様相を呈し、米国で起きた学生運動のうねりは、日本を含む世界中の国々に広がっていった。学生や市民の中からは、世界の幸福を願う熱いマグマのような善意があふれ出してはいたものの、その想いがどこに流れ着けばよいのかがわからない。何かを変えなければいけないという焦りはあるが、明日がよく見えない...。

「閉塞感と明日への希望が交差する不思議な時代」を象徴する映画の一つが、「まごころを君に」である。

第2回 『ジョニーは戦場へ行った』 (1971年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「基礎コース・Ⅱ」に籍を置く受講生。北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"中。当年とって53歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。


原題:Johnny Got His Gun (1971年)


   

■ 国家へ忠誠を誓った一人の若者の終着点、或いは出発点


1917年アメリカはドイツに宣戦布告し第一次大戦に参戦する。この映画の主人公であるアメリカ人の青年、ジョニーも徴兵され戦地へ赴く。
戦闘が繰り返される毎日。ある雨の夜、ジョニーの部隊は上官の命令により、前線に放置された敵兵の死体を埋葬することになった。そのあまりにもひどい腐敗臭は、自分は戦争の只中にいるのだという現実を、ジョニーに否応無く突きつけるのであった。
作業を終えて撤収しようとしたその時、敵の奇襲攻撃が始まった。
ジョニーは塹壕に逃げ込むが至近距離で爆弾が破裂。致命的とも思われる重傷を負った。ジョニーは意識を失い、そのまま病院に担ぎ込まれる...。
死の淵から意識を取り戻したジョニー。しかし、何か様子がおかしい。時とともに、ジョニーは、自分のおかれた現実に気づいていく。
五体はほとんどすべての機能を失い、ベッドから降りることは生涯不可能、そのうえ顔面は爆風で抉り取られ、声を発することもできない。そこにいるのは、生きているだけの自分だった・・・。
声なき声で叫び続けるジョニー。このような状況で、人間は何を呪い、何に救いをもとめればよいのか・・・。

同名の小説の原作者は、ダルトン・トランボ(1905~79年)。一兵卒として戦地に赴く青年の絶望を描いたこの本のテーマのひとつは明らかに"反戦"である。それにもかかわらず、初版は第二次世界大戦が始まった1939年に発行されている。
案の定、本書は国威の高揚やお国のために身を捧げる精神の流布に力を注いでいた米国当局の圧力で、絶版の憂き目にあった。

しかし、この本の持つ真理や普遍性に対する根強い支持によって復刻を果たす。その後も絶版と復刻を繰り返しながら、今現在まで世界中で広く愛読されてきた。
トランボ自身は、第二次大戦後ハリウッドに吹き荒れた「赤狩り(レッド・パージ)」によって共産主義者の烙印を押され、1947年、ハリウッドから追放された。
しかし、彼はその後も名を偽りながら脚本の執筆活動を続けていたのだ。1953年には、あの「ローマの休日」を"イアン・マクレラン・ハンター"の名で書き上げている。
1960年にはハリウッドの表舞台へ復帰を果たす。映画史に残る名作「栄光への脱出」は、彼が脚本家として実名復帰を果たした第一作目でもある。

トランボが自身の創作活動の原点ともいえる「ジョニーは戦場へ行った」を映画化したのは1971年になってからだ。脚本のみならず監督も務め、自ら出演まで果たしていることからも、本作への並々ならぬ思い入れがうかがえる。
公開後はアメリカ国内をはじめ世界各国で反響を呼び、同年のカンヌ国際映画祭で「審査員特別グランプリ」を受賞した。

この映画が今も私をひきつける理由の一つに、ラストシーンがある。
ラストシーンは、監督が作品の締めとして最も神経を使うパートの一つであり、観客への作品への印象をほぼ決定付けてしまう、重要な時間帯だ。
私の中で印象深く、忘れがたいラストシーンは数多くあるが、この作品のそれは、まさしくベスト中のベストなのだ。
撮影手法は極めて単純である。ベッドに横たわるジョニーを最初はアップで捉え、その後は引いてゆくだけだ。
ただ引きのシーンに掛ける時間が異常に長い。なんと約2分30秒、しかもワンカットである。映画でここまで長いワンカットには、なかなかお目にかかれるものではない。
しかし、私は時間の長さを一切感じない。戦争と平和、地獄と天国、失意とわずかな希望――。淡々と響くジョニーの心の声に耳をすましながら、皆さんはこの2分30秒に何を感じ、何を思うだろうか。

ここで視点を少し変えて、国家と個人との関わりについて少し考えてみたい。
映画の冒頭に取り入れられた記録フィルムで、第一次大戦に参戦した諸国の為政者たちが次々と顔を出す。
手を振り、にこやかに微笑み、閲兵する国家のリーダーたち。戦争を操るのは、まさに彼らである。各国はそれぞれのエゴをむき出しにし、犠牲をいとわずに領土をむさぼる。しかし為政者たちの手は一切汚れない。
「国家」に名を借りた為政者のエゴのために召集され、死んでいくのは、いつの時代も名も無きジョニーたちである。彼らはそれぞれの幸せを故郷に置き去りにして戦地に赴き、「お国のため」という一見美しいスローガンのもとに散っていく。
それは今も全く変わらないのではないか。
私も含め、世界中の多くの人間は戦争やテロの傍観者である。今もどこかで新たなジョニーが生まれているというのに、他人事を決め込んでいる。それは戦争を是とする為政者の側にいるのと等しい、という事実を、我々は認識し反省する必要があると思う。
せめて、戦いに己の命を賭したジョニーたちが発信するメッセージを、我々はきちんとすくい取る必要がある。
個人は無力だと諦める前に、彼らの存在、そして彼らの心の癒えない傷にまず目を向けること、それこそが人類の新たな旅立ちの第一歩ではないのか、私はそんな気がしてならない。
映画の持つ力、魔力とさえいえるかもしれない何かを再認識させられる「ジョニーは戦場へ行った」。このような感動に出会えるからこそ、私の映画行脚は終わらないのだ。


参考資料: VIDEO版「Johnny Got His Gun」Distributed by CBS/SONY INC.
(※日本語字幕版はAMAZON JAPAN などで検索可)
「ジョニーは戦場へ行った」ドルトン・トランボ著(信太英夫訳
角川書店 平成2年3月30日 44刷)
「レッドパージ・ハリウッド」上島晴彦著
「アメリカの世紀 1950-1960 赤狩りとプレスリー」Time-Life Books編集部編著 他