【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】たけのこの炊き込みご飯や蕗の炒め物。季節感いっぱいの春を楽しんだが、例年と違うのは花粉症。いったいどうしたのかと思っていたら、どうも昨日あたりからクシャミが出始めた。今年の寒い春でけやきの花粉が出遅れたのかな??
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ハワイへ行って間もなくのことだ。夫が仕事に出かけてしまえば、日中は私一人。狭いアパートを掃除し洗濯を終えれば、他に何もすることはない。時間を持て余した私は、自分用の車を持ち行動範囲が広くなったこともあり、ハワイ大学で聴講をしようと思い立った。特に何を勉強したいというわけでもなかったので、とりあえず日本で通った大学の専科、アメリカ文学のクラスをとることにした。
ハワイ大学はとてもオープンで、聴講を希望する者には年齢、国籍に関係なく門戸は広く開かれている。試験も一般学生と同等に受けることができ、成績表もきちんとついてくる。単位も取得でき、その気になれば一生かかって積み重ねた単位で、正式にハワイ大学の卒業資格も取れるのだ。
問題は、当時の私の英語のヒアリングが、大学の授業を理解できるほどであったかどうか。日常会話に関してはさほど問題はなかったが(電話は怖かった・・・)、大学の授業となると話は別だ。必死になって聞いたはずでも、授業の内容の半分も理解していなかったと思う。そこで隣の席にいたローカルの白人女性のクラスメートに、授業ノートを借りることにした。そして、これがきっかけで、その女性と親しく付き合うようになった。
ある日、私は夫と共にそのクラスメートのお宅の夕食に招かれた。
彼女の夫は日系人で、彼の両親も同居。ご両親と私たちは日本語も交えながら、ひとしきり話に花を咲かせた。その中で、日本はどこに住んでいたかと尋ねられ、東京だと答えたところ、彼女の夫はキチジョウジを知っていると言う。吉祥寺は私の庭のようなもの、世界は何て狭いのだろうと驚いた。
話も一段落してお腹もすいたことだし、みんなで夕食のテーブルについた。私たちがフォークとナイフに手を伸ばそうとしたその時、彼女たち夫婦は両手を前に組み、うつむいてお祈りを始めた。食事の前にお祈りする習慣はない私たちも、あわてて同じように手を組みうつむいたが、慣れないせいか何となく照れくさかった。お祈りが終わり、食事の前にまず出てきた飲み物はビールではなくミルク(暑いハワイでは、まずビールから始まるのが通常だった)。食事が終わった後にはコーヒーではなく水が出てきた。この家ではタバコも禁じられており、当時、ヘビースモーカーだった私の夫にとっては、少しつらい時間を過ごすことになった。それでも、そんな彼らの様子を見て、ずい分と規律正しい生活をしている人たちだな、と感じた。
それから数日たって、アパートのマネージャーのオナーと話をしているうちに、その日系人の話が出た。ヒロは狭い町なので、オナーは2人のことを知っていて、「あの人たちはモルモン教徒なのよ」と教えてくれた。
現在、アメリカでは11月に行われる大統領選が盛り上がっている。この選挙のカギを握る、中間所得層の票獲得をめぐって争っているのが、現大統領で民主党のオバマ氏と共和党所属のロムニー氏だ。これまでの大統領はケネディを除き、すべてプロテスタント。一方、ロムニー氏はモルモン教徒ということもあり、今まで以上に選挙の行方が話題を集めている。日本にいると、宗教のことを身近に感じる機会があまりないが、私はハワイで意外な出会いを経験したこともあり、今回の大統領選のニュースにも大いに注目している。
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】今年の桜は、完ぺきなタイミングで、最高に美しいお花見ができた。武蔵野市役所前の通りを、花びらが散る中、淡いピンクのトンネルを車でゆっくり走る。日本人であることの幸せを胸いっぱいに感じた。
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ヒロは雨がよく降る町だ。北東からやって来る湿った空気を含んだトレードウィンド(貿易風)が、ハワイ島の中央にそびえるマウナケアとマウナロアの2つの山にぶつかり、その手前の町ヒロに雨を降らす。ハワイの町にして、別名"雨の都"という名を持つほどで、年間平均降雨量は東京のおよそ2倍だ。
ハワイへ行く前に観光案内書でそれを知り、お土産にしてもいいと思って折りたたみ傘を10本ほど買って用意した。その昔プランテーション時代に、サトウキビ畑に働きに出かけた日系移民は、『弁当忘れても傘忘れるな』と言ったそうだ。日系人が3分の1を占めるというヒロの町、"きっと雨が降れば住民はみんな一斉に傘を広げるに違いない"と想像していた。
しかし、ヒロの町で生活を始めてみると、どこを歩き回っても傘をさしている人など見当たらない。車社会ということもあるが、たまに見かける路上の若者たちは、雨に濡れることなど何とも感じないかのように、平然と雨の中を歩いている。すぐにまた太陽が顔を出し、雨に濡れてもたちまち乾いてしまうのだ。そんなハワイで生活しているうちに、逆に、"日本ではなぜ、ほんのわずかな雨でもすぐに傘をさすのだろうか"と疑問に思うようになったくらいだ。結局お土産にと思って買った10本の折りたたみ傘は、そのままアパートの物置の奥でほこりをかぶることになった。
〔これがハワイかと思うような景色だ。マウナケアとマウナロアの山頂の雪。青々とした木々の手前に見えるのはサトウキビ。〕
この雨は、冬になるとマウナケアとマウナロアの山頂に雪を降らす。ハワイも日本の冬の時期は気温が少し低くなるのだ。ハワイに住んでいた当時、お正月になると日本からの観光客がワイキキビーチで海に入るのを見て、"寒くないかな~"と感じたものだ。
日本のガイドブックで、ハワイでは降雨量が多いだけではなく、雪も降ることを知った私は、あろうことか日本からの引っ越し荷物の中に、スキー道具一式をしのばせた。どんな山かも知らず、ハワイでスキーをすることを夢見て・・・。マウナケアは標高4205メートル、マウナロアは4169メートル。もちろん富士山よりずっと高く、簡単に山頂へ登れるような山ではないことは、ハワイで生活を始めてから知ったこと。ここでどうしてもスキーをしたければ、"4輪駆動のジープに乗るか、ヘリコプターを1台雇うかしない"そうだ。結局スキー道具一式も、折りたたみ傘10本と共に、1度も使われることなく物置の片隅に追いやられた。
ところが、実際にスキーを滑った人に会ったのだ。その人はシマダさんの友人で、還暦をとうに過ぎている女性。若い頃スキーで日本の国体に出場した経験の持ち主だが、縁あって40代半ばでハワイの日系人に嫁ぎ、優しいご主人と共に幸せな生活を送っている。ハワイに移住した後、何としてもマウナケアで滑りたいという彼女の望みをかなえるために、ご主人が4輪駆動のジープを買ってくれたそうだ。ついに望みは実現し、マウナケアでスキーを滑ったところが、途中で転倒して骨折。回復までにかなりの時間を要したと話してくれた。大学の体育の授業でスキーを習っただけの私など、ハワイでスキーを滑りたいと思っただけでも大それたことだった・・・。

〔左:雪に覆われたマウナケア山頂。右はその雪の中を歩いていた人影。現在はマウナケア山頂まで道路が建設され、山頂への観光ツアーバスが走るようになった〕
しかし雨が多く降るおかげで、ヒロの町は木々の緑が美しく、雨が降った後にはきれいな虹がよくかかる。時には大きな二重の虹になる時があり、それを見て私はよく、オズの魔法使いの主題歌"Over the Rainbow"を口ずさんだものだ。『Somewhere over the rainbow way up high...』。私にとってこのハワイが、まさに虹の向こうにある夢の国だった.。
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】私が今はまっているのが、「麹」。この旨さは化学調味料ではとうてい追いつかない。麹を発酵させることを「醸す」という。外国語ではなかなか表現が難しい言葉だ。「麹」「醸す」、ともに日本の文化の宝だと思う。
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アパートのマネージャー、ファーンズワース夫妻の妻オナーはすらりと背が高く、いつも穏やかな笑顔を絶やさない、優しい素敵な女性だった。私に長男が生まれると、買い物に行く時などよくベビーシッターをしてくれ、とても可愛がってくれた。ある日彼女は、その長男を空港で働いている夫のビルや他のスタッフに見せたいと、車に乗せて出かけた。ところが、オナーは空港に到着した後、発作を起こし、気を失ってしまった。幸いビルがすぐ側にいたので大事には至らず、帰りはビルが運転をして、その日は皆、無事アパートに戻ってきた。
当時オナーは度々ひどい頭痛に悩まされ、時には意識を失うことがあった。いつもブレスレットをしていて、そこには倒れた時に周囲の人が分かるように「私は"てんかん"の発作を起こすことがあります」と刻まれていた。しかし、その頭痛は徐々に我慢できないほど激しくなり、ホノルルのクイーンズ・メディカルセンターで精密検査をしたところ、脳腫瘍と判明。それもかなり進行しているという。彼女がたびたび意識を失う理由はてんかんではなかったのだ。緊急手術になり開頭したが、手の施しようがなくそのまま塞いだ。でも夫のビルはあきらめず、オナーを連れて週に1度、ヒロからサンフランシスコへ化学療法を受けに通った。この治療で一命はとりとめたが、強力な放射線治療のため脳の正常な細胞もダメージを受け、たくさんの大事な記憶までもが消されてしまった。
オナーがホノルルで手術をした時、すでにヒロからホノルルへ移っていた私たちは、クイーンズ・メディカルセンターにお見舞いに行った。その時私は、紐を引くと『星に願いを』を奏でるオルゴールを彼女に贈った。
しばらくして私の夫はホノルルからシアトルへと転勤になり、4年後には日本に戻ることになった。帰国する際、途中で懐かしいハワイへ立ち寄った。ヨコヤマさん宅に滞在しながら、どうしてもオナーの様子が知りたくて、クリスマスカードに記された住所を訪れてみた。夫妻はすでにアパートのマネージャーをやめ、美しい花に囲まれた静かな一軒家に住み、オナーは庭の花の手入れをしながら穏やかに暮らしていた。会って話をしたが、私の顔を覚えていなかった。でもその時、部屋の奥からあのオルゴールを出してきて「これは大切な日本人の友達からのプレゼントなの」と言ってその紐を引いた。私が彼女の回復を心から願って選んだあの曲、『星に願いを』のオルゴールの音が流れてきた。その音色と共に、彼女とのさまざまな思い出がどっと心に溢れた。
まだヨコヤマさん一家と知り合う前、私の初めての海外生活の不安や寂しさを癒してくれたのがオナーだった。毎日のようにあの優しい笑顔で近づいてきて、「ハーイ、アツコ」と話しかけてくれた。それから、最初のうちは食器洗いの洗剤、お風呂掃除の洗剤、床を拭く洗剤、どれもみな同じに見えた私を、スーパーに連れて行って、1つ1つ説明をしてくれたのも彼女だ。...次から次へと想い出が私の頭をよぎる。
『私の顔は忘れてしまったかもしれない。でも彼女の心の中には、大切な友達としての私の記憶はしっかり残していてくれた』。ファーンズワース家を後にした時、私はこらえきれず車の中で思い切り泣いた。
オナーはクリスマスカードの最後に、必ずスマイルマークを描く人だった。ニコッと笑うそのマークは、まさに彼女の笑顔だった。あれからもう何年たっただろう。今では音信が途絶えてしまい、彼女の様子を知る術もない。いや途絶えたというよりむしろ、その後のことを知るのが怖くて、あえて私から音信を絶ったのかもしれない。
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】アイルトン・セナが生前こう言ったそうだ。
『限界までは誰でも行ける。それを超えたところから、本当の勝負は始まるのだ』
テニス全豪オープン決勝戦はジョコビッチ対ナダルの6時間にわたる死闘。
まさに限界を超えた戦いを制したのはジョコビッチ。ナダルに勝たせたかった・・・。
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「ああ、またペレが怒っている」
キラウエア火山が噴火するたびに、ハワイの人々は必ずペレの名を口にする。嫉妬心が強く、激しい気性のペレは、自分の意にそぐわないことが起きると激怒し、火山を噴火させ溶岩を流す。人はそれに何の抵抗もできず、ただ呆然と眺めているだけだ。だが、そんな大自然の力に対し無力だと思われている人間も、時に信じられないようなドラマを作り出すことがある。
ハワイ島南東部に、カラパナという静かな村があった。1990年の噴火の際、ペレの怒りはこの村に向かった。溶岩はヤシの木であろうと人家であろうと、周囲にあるものすべてを炎の中に包み込む。村の人々は自分達の家が目の前で燃え上がるのを、ただ泣きながら見つめるしかなかった。
〔左上方から溶岩が近づいている。右のページの右下にある白い教会が移動したペインテッドチャーチ。もう1つの教会(右のページの中ほどにある)は溶岩にのまれた。
『Aloha Okalapana』より〕
溶岩の流れの先には村の2つの教会があった。そのうち1つの教会の信者達は、これは神から与えられた運命として、溶岩にのまれるという現実をやむなく受け入れることにした。しかし、「ペインテッドチャーチ」として知られるもう1つの教会だけは、何とか救いたいという声が上がった。そこで村人達は、溶岩の流域から外れた場所に教会を移動することを決めるが、溶岩は目前に迫っている。もし道路に流れ込んでしまえば、道は塞がれ万事休すだ。徹夜の作業で教会を部分的に解体し、建物本体を大きな台車に乗せて安全な場所へと引いていく。こうして溶岩から逃れるようにして、教会は辛うじて救われたのだ。そして移動が終了した直後、道路は溶岩に覆われた。
〔左:村人が協力して、ペインテッドチャーチを台車に乗せて移動しているところ。(Aloha OKalapanaより〕

〔現在のペインテッドチャーチ。私が訪れた時は、真っ青な空に白く浮かび上がり、本当に美しい教会だった。内部は名の通り、カラフルな絵に囲まれている。〕
これはペレの力に対し、何らかの抵抗をして成功を収めたごく稀なケースだが、通常はそう簡単に見逃してはくれない。
日本でもCSチャンネルで放送されているドラマ『Hawaii Five-O』。オリジナルは1968年から80年にかけて大ヒットした番組で、舞台がハワイだったこともあり、当時、私も楽しみに観ていた。しかし、エピソードの1つに出てきた、ある男が金を目当てにハワイ州知事を脅迫するセリフは、大いに物議をかもすものだった。
"ハワイ島の火山の火口に爆弾を仕掛けて溶岩の流れを変え、
ヒロの町を火の海にしてやる。それがイヤなら5億ドル用意しろ"
ペレの本当の怖さを忘れてしまったような内容に、撮影現場を目撃した地元の人たちは嫌な予感がした。案の定火口付近では、雨には慣れているはずの地元の人々が驚くほどの豪雨が続き、撮影予定が大幅に遅れた。きっとペレの怒りに触れたに違いない。
『ペレの棲家に爆弾を仕掛けるなんて、ペレが怒るのは当たり前だ。結局、撮影スタッフはみんな、火口でペレに祈って怒りを静めた。それで何とか無事に撮影は終わったらしいがね』。とヨコヤマさんが言っていたことが記憶に残る。
ペレは神話に登場する女神である。しかしハワイの人々にとっては涙や髪の毛とされる物まで実際に目にすることができる、とてもリアルな存在だ。そのためペレに関わる話の多くは、どれも事実とフィクションの境目がはっきりせず、そこがまた興味深い。ともあれ、私にはペレの話はどれも"自然に対する畏怖の念を忘れてはいけない、人は自然の中で生かされているのだ"ということを示唆しているように思える。科学の進歩に依存しすぎている私たち現代人に向けた、ペレの警告のような気がしてならないのだ。
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】昨年は日本がかつてない大きな問題を抱えた年だった。その1年を
表す文字として選ばれた『絆』。改めて人と人との繋がりを考えたい。
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ハワイ島にある活火山キラウエアには、火の女神ペレが住むという。ある時は白髪の老婆に、またある時は黒髪の魅惑的な美女に姿を変える。そんな女神ペレにまつわる話は数多くあり、本当に会ったと言う人も少なくない。実はヨコヤマさんの妹、シマダさんもその一人だった。ある時、シマダさんから当時の体験談を聞く機会があった。
『あれはもう随分昔のことだね。庭のマンゴがたくさん実ったので、カウマナドライブの上の方に住んでいるヨコヤマの兄さんの家に届けようと、夜8時ごろに車で出かけたんだ。
用事を済ませ、急いで帰ろうとカウマナドライブを下っていった。くねくねと曲がったあの通りには灯りが全くないから、車のライトを頼りに注意深く運転していたよ。そして、いくつ目かの大きなカーブを曲がったその瞬間、犬を連れた真っ白な長い髪をした老女の姿がライトの中に浮かび上がったんだ。それでビックリして急ブレーキをかけ、ハンドルを切ったよ。
あまりの出来事にしばらく呆然としていたけど、我に帰って振り返った時には老女の姿は消えていた。とにかく怖くて、その後どうやって自宅にたどり着いたか覚えていない。だけど白髪の老女を見た瞬間、私にはそれが誰だか分かったんだ。あれはペレ。火の女神ペレに違いない。あの辺りにはカウマナケイブという溶岩洞窟があり、その中にペレが住んでいて時々姿を現すとは聞いていた。でも、実際に見たのはあの時が初めて。以来、暗くなった後、あの辺は二度と通らないようにしている。またペレに出くわすかもしれないからね』。
昔からハワイではこう言われている。"もしどこかで犬を連れた白髪の老女に出会ったら、親切にしてあげなくてはいけない。お腹がすいていると言われたら、何か美味しいものをご馳走してあげなさい。寝る場所がないと言われたら、家に連れてきて休ませてあげなさい。その老女はペレかもしれないから。もし邪険に扱ったら、ペレは怒って必ず仕返しをする。火山を噴火させてその人の家に向かって溶岩を流すのだ"、と。シマダさんはこれまでに何度もそうしたことが起こっていると、こんなエピソードを話してくれた。
『ハワイ島東部、プナ地区の海に突き出した岬にクムカヒという灯台があってね、その昔、白髪の老女が一晩の宿を求めてやってきた。灯台守は親切に食事と暖かい寝床を用意したけど、別の住人は"薄汚い老女だ"と彼女を追い払った。それから間もなく、プナで噴火があり、老女を追い払った人の家は溶岩にのみ込まれ、瞬く間に炎の中に消えていった。でも、溶岩はクムカヒ灯台のすぐそばまでくると、まるでそれをよけるように海へ流れ、灯台は何の被害も受けず無事だったんだよ。今度、クムカヒ灯台へ行って、実際に溶岩を見てみるといい』。
〔左が灯台の全景。右は灯台の周囲のフェンスをよけて流れた溶岩〕
上の2枚は、私がクムカヒ灯台へ行って撮った写真だ。あまりにも見事に灯台をよけた溶岩を目の前にすると、ペレの話をただの迷信とは片付けられないと認めざるをえなかった。
キラウエア火口にあるジャガーミュージアムには、ペレの涙と髪の毛が展示されている。これらは火山活動によって出現した物にすぎない。しかし、じっと見ていると、今でもペレはハワイの人々の心の中にリアリティを持って力強く生き続けている、と実感させられるのだ。
〔ペレの涙と髪の毛とされる、火山からの噴出物〕
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】今朝、ハワイの島田さんから久しぶりに電話をもらった。ご主人のジョーが亡くなって1年3ヶ月が経った。12月8日の開戦の日がジョーの誕生日で、生きていれば90歳になっていたという。ハワイの昔を知っている人々が徐々に姿を消していく。
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ヨコヤマさんに「昼と夜を間違えて生まれてきた」と言われていた息子の夜泣きも徐々に落ち着き、そろそろお宮参りをしなくてはということになった。新米ママとしては、首がしっかり座る前に連れ出すのが不安だったこともあり、お宮参りの日は生後100日目とすることにした。場所は地元で唯一の神社、ヒロ大神宮である。
当日、夫はアロハシャツ、私はムームー、長男は暑い中、日本から送られてきたお宮参り用の産着を掛けてという、日本とハワイが入り混じったようないでたちだった。やることなすこと、全てが初めての経験。産着をどうやって掛けるのか、教えてくれる親もそばにはおらず、かつて何となく日本のテレビや雑誌などで見たおぼろげな記憶を探り、汗だくになりながら必死に準備をしてヒロ大神宮の鳥居をくぐった。
宮司は宮崎さんという方だった。始めに儀式の簡単な説明があり、長男がこれからすくすくと育つようにと、厳かに祝詞が挙げられお祓いをした後、あっと驚くことが起きた。なんと宮崎さんは水の入った器を手に取り、それをすくって長男の額と口にたらしたのだ。これではまるで、かつて映画で見た外国の赤ちゃんが教会で受ける洗礼式のようではないか! あれから35年以上経った今でも、あの時の驚きは鮮明によみがえってくる。あれは一体なんだったのだろう...。
そこで今回、この原稿を書くにあたり、ハワイにおける日本宗教、中でも神道に関していろいろと調べてみた。
最初にハワイの日系移民に広められた宗教は、意外にもキリスト教だった。先の見えない不安や労働の辛さから移民たちの生活が荒れ、日本から牧師の岡部次郎がハワイへおもむき、伝道を始めたのだ。その後、布教された宗教は仏教、神道と続き、1898年、ハワイで最初の神社がハワイ島に創立された。天照大神を祀り、当初は大和神社と呼ばれていたのだが、実はこの神社こそが長男のお宮参りに行ったヒロ大神宮である。ヒロのダウンタウンに建てられ、1903年にヒロ大神宮と改称されたが、社殿は1946年、1960年の2度のツナミに襲われたため、現在はハワイ大学ヒロ校に近い高台に再建されている。
神道は1941年の太平洋戦争の開戦と共に危険な宗教とみなされ、ハワイの宮司の多くが逮捕収監された。日系人はFBIなどの捜査を恐れて神社に近寄ることを避け、戦後も神社に参拝する日系人の数は減少。また日本語学校が廃止されたことから、日系2世3世の日本語離れが進み、神道はますます遠い存在となった。太平洋戦争を経験した日系1世と2世、そして若い世代の間に微妙なずれが生じ始めた。
戦後、ハワイの神社は、日本語をほとんど話せない若い日系人の世代に神道を広めるため、日本とは異なるスタイルで運営をするようになった。マウイ神社では宗教的な行事が終わった後、キリスト教会でよく行われるビンゴに興じる。またハワイ出雲大社の宮司は、建造物の地鎮祭やお祓いに出かける際に、ハワイ人のキリスト教の牧師とペアになって行くそうだ。キリスト教式の祈りと神道式の祈りとでタッグを組むというわけだ。
となると、あのお宮参りで行われた洗礼式のような儀式は、神道がハワイという土地に適応しようするひとつの姿だったのではないだろうか。大げさに言えば、ハワイにおける宗教変遷の歴史の1ページを目撃したということになるのかもしれない。私は勝手にそんなことを考えて、あの聖水の儀式を納得することにした。
参考資料:「海を渡った日本宗教」 井上順孝著 弘文堂
「ハワイの神社史」 前田孝和著 大明堂
「ハワイ日系人社会と日本宗教」 柳川啓一 森岡清美篇
東京大学宗教学研究室
「ハワイ島日本人移民史」 ヒロタイムス
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】我が家の外装の塗装工事がようやく終わりに近づいてきた。この2週間は足場とネットに囲まれ、文字通り「かごの鳥」状態。秋の爽やかな空気を味わうどころか、塗装のにおいに浸っていた。
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当然のごとく、長男が生まれてから生活は一変した。朝から晩まで、時間に追われる日々が続く。まずオムツの洗濯がある。相変わらずランドリールームは1階だから、毎日1階から4階を何度も往復する。当時、紙オムツはまだ貴重な品。ロングドライブに出かける時に使うくらいで、普段は日本から持参した木綿のさらしのオムツを使っていた。トイレの中でサッとゆすぎ、それを脇に置いた漂白剤の入ったバケツの中に入れて殺菌する。いっぱいになったら洗面台でゆすぎビニールの袋に入れ、ランドリールームへ担いでいく(オムツの殺菌方法はクレさんから習ったやり方だった)。長男を寝かしつけた合間を見計らっての、まるでゲームをしているような感覚だった。
定期健診も大変だった。小児科の担当医はドクター・バンパッサンといって、オランダ系のアメリカ人。日常の英会話はさほど問題なかったが、初めての子育てに関する様々な不安を尋ねるには、やはり準備が必要だった。ノートを1冊作り、和英辞書を引きながら質問事項を英文に直す。まず予防接種の名前を英語で調べる。それに加え「湿疹」「微熱」「鼻水」「ぐずる」・・・等々、長男の微妙な変化を英語で説明しなくてはならない。診察室でノートに書いた英訳した文を読みながらドクターに質問するまではいいのだ。問題はドクターの返答だ。とにかく早口で、おまけに猛烈なオランダ訛り?だ。
「○×△□#*・・・ OK?!」
毎回、彼の言葉の中で理解できたのは、最後の決めの一言「OK?!」だけ。これではかえって不安が大きくなる。そこでいつも日本語が分かる日系の看護師の方にそばにいてもらい、診察が終わった後改めて彼女に説明をしてもらう、ということが続いた。
どういうわけか我が長男は、昼間はぐっすり眠るのだが、夜になるとぐずって泣き出す。新米ママは昼間は何かと忙しく動き回り、夜は疲れ果てて少しでも休みたいと思うのにそれをさせてくれない。アパートの隣近所に泣き声が聞こえると迷惑なので、抱いてあやしながらあの狭いアパートの部屋の中を、夜中グルグルと歩き回った。時には車に乗せて、ヒロの町をドライブすることもあった。眠ったかなと思いアパートの駐車場に戻って車を停めると、思い出したようにまた泣き出す。あまりに辛くてヨコヤマさんに相談したところ、「昼と夜を間違えているからだ。長男の名前を紙に書いて、それを逆さにしてキッチンに張りなさい」と言われた。効果があったかどうかは、記憶に定かでない。
こんな新米ママの、「笑い、時々涙あり」の生活は、多くの人々の助けを得ながら、徐々に何とか要領を得るようになっていく。

〔『新米ママの"笑い時々涙"』の
"笑い"の瞬間〕
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】もうすぐナダルの母国スペインを訪れる。彼が生まれ生活している
マヨルカ島はこのツアーのスケジュールにない。では何のためにスペインへ?
ナダルが呼吸している国の空気を吸いに行くのです!
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ハワイで人生初めての様々な経験をし、成長していた頃、私のおなかにいる赤ちゃんも順調に大きくなっていった。「サードフロア」と呼ばれた、隣のアパートの4階へ引越してからはおなかがどんどん大きくなり、階段の上り下りも大変な状態。1階のランドリールームから大きな洗濯物のバスケットを抱えて上る途中、急におなかが張ってきて動けなくなることもたびたびだった。また、買い物から帰ってくると、我が家の駐車場のすぐ前に住む、アパートのマネージャーの奥さん、オナーが荷物を運ぶのを手伝ってくれることもあった。
私が診てもらっていた産婦人科医はドクター・A.タカセといって、ヒロでは評判の日系アメリカ人の腕利きのお医者様。ツルさんやクレさんに相談して決めたのだが、診察してもらう時の安心感はこの上ない。妊娠、出産という初めての経験を、身内がいない土地でこれから迎える不安を払拭してくれるような信頼感と暖かさのある先生だった。これからやってくる様々なステージを穏かに丁寧に説明してくれる。それでも未知のことに直面する期待と不安は私の心から溢れるようだった。"陣痛"と一言で言っても、それは一体どんな痛みなのだろう。どんなふうにやって来て、いつ頃病院へ行けばいいのだろう・・・。
日本にいる母には出産と同時に連絡をして、すぐに飛行機で飛んでくるという手はずになっていた。電話で出産のことを尋ねると「私のお産の時は、秋田のおばあちゃんが"障子の桟を数えられなくなったり、畳の目が見えなくなったりする頃生まれる"とよく言っていたものよ」と言う。ハワイの家には畳もないし障子もない。けれどそのくらいの痛さを感じた頃に生まれるのだろうと想像する。「日本人なんだから、少しぐらい痛いからと言って、声を上げたりしたら恥ずかしいのよ」と何度も諭された。
これが陣痛かと思うたびに病院へ駆けつけ、まだだから帰りなさいと何度か言われながら、ついに入院の許可が出た。ところがなかなか本格的な陣痛が起きず、結局陣痛促進剤を点滴しながらの出産となった。隣の分娩室からは「ギャー、ヘルプミー、ヘルプミー!!」と叫び声が聞こえる。そのすさまじい声を聞くと、母の「日本人なんだから・・・」という言葉が私の頭の中を行き来する。畳の目も障子の桟も見えなかったが、大声を出すこともなく何とか無事出産を終えた。
ヒロホスピタルでの出産の入院日数は2泊3日。出産直後ベッドで少し休んだあと個室に入り、トイレやシャワーはすべて自分で行う。(恥ずかしながら最初のトイレ行きで私は失神してしまった)。
長男誕生の翌日、ヨコヤマ夫妻は待ちきれないようにお見舞いに来てくれた。当時ヒロホスピタルで出産を迎えた母親に面会できるのは、母親自身の身内と夫だけだった。ところがヨコヤマさんは「私はアツコのヒロの父親じゃ」と言って強引に許可を取ったのだ。新生児室の前でずらりと並んだ赤ちゃんを見て、リチャードさんは「おお、あれがユアベイビーじゃの。やっぱり違うの。ジャパニーズベイビーは、イチバンじゃ」。そう言って目を細めた。
長男は太平洋で生まれた最初の男の子、という意味で「洋一郎」と名付けた。アメリカではミドルネームも付けるということで、ちょっと気取ってAllenとした。これは、恐れ多くもドクター・タカセのファーストネーム、Alan からいただいた名だった。

〔ヨコヤマさんにとっては、"初めての孫"のような存在だった息子の洋一郎〕
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】筋書きのないドラマ、スポーツにおいて、「この瞬間をリアルタイムで目撃することができた」という大きな幸せを感じる機会が続いている。サッカーのなでしこジャパンワールドカップ優勝や、テニスでは今年の全米オープン準決勝、決勝でのジョコビッチのふんばり。「人間って、ここまでやれるんだ」そんな感動を与えてくれた。
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私たちが住んでいたヒロのアパートのすぐ隣に「CAFE100」というドライブインがあった。ハワイ通の方はご存知かもしれないが、この店は、今や日本でもお馴染みのハワイのローカルフード「ロコモコ」発祥の地で、ガイドブックなどにも登場している。ロコモコ以外にもさまざまなメニューがあり、特に昼どきは駐車場が車で一杯になる人気の店だ。
ヒロに住んでいた頃はよくここでランチを食べていたが、このドライブインの名前の「100」が何を意味するのか、いつも疑問に思っていた。しかし調べてみると、これにはハワイに住む日系二世の人々が歩んできた歴史にまつわる由来が存在していたのだった。
〔アパートの隣のCAFE100〕
1941年、太平洋戦争が始まり、アメリカ国内の日系人社会は大きく変わった。アメリカに生まれ、アメリカの教育を受けている日系二世にとっては、日本は両親の母国とはいえ、遠い外国だった。一方、多くの一世は、「自分たちの母国は"日本"だ」という強い信念が邪魔をしてか、なかなか英語がうまくならず、アメリカの生活にも馴染めずにいた。国内では、そんな日系人に対する警戒が強まり、特に教育や宗教に携わっていた知識層の人々の中には強制収容所へ送られる人も大勢いた。
そこで、日系二世は自分達のアメリカに対する忠誠心を示すためだけでなく、両親である日系一世のハワイでの立場が少しでも良くなるようにと、ハワイ日系人の志願兵のみで「第100歩兵大隊」を編成した。ハワイ語で穴を意味する"プカ"という言葉があるが、「0」は真ん中に穴が開いているということで、この大隊の名前を日系人は「ワン・プカ・プカ」と呼び、勇気と誇りを表す代名詞のようになった。
一方、日系一世の心境は複雑だった。息子が自分達の母国である日本を敵に回し、アメリカ兵に志願すること自体許せない親も多かった。しかし、そんな思いとは逆に、「ワン・プカ・プカ」はアメリカ本土での訓練で優秀な成績を上げ、精鋭部隊に成長してイタリアへ派兵される。さらにアメリカ本土の日系人も参加した日系人部隊・442部隊と合流し、211名のテキサス州兵第一大隊の救出を行う活躍をした(これについては、すずきじゅんいち監督の映画「442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍」に詳しい)。
その第100歩兵大隊に所属していたのが、「CAFE100」の創業者、リチャード・ミヤシロさんだ。第100歩兵大隊にいたことを誇りに思っていたリチャードさんは、帰還後に開いたこのドライブインに「100」という名前をつけたのだった。
「CAFE100」は1946年ダウンタウンのカメハメハ・アベニューで開業。それからわずか3ヵ月後大津波に襲われたが辛うじて全壊を免れ、建物の修理をしながら営業を続けた。その後1960年、1号店からさほど遠くない場所に「CAFE100」2号店を開く。ところが23日後、2号店までもが再び大津波に襲われ店が全壊してしまった。
〔2008年 のStar Bulletinから この写真は2号店〕
しかし、そこで諦めないのが「ワン・プカ・プカ」魂だ。ミヤシロさんは1962年、今度はダウンタウンから少し離れたキラウエア・ストリートに「CAFE100」3号店をオープンした。これが、私たちの住んでいたアパートのすぐ隣にあり、人気店となった「CAFE100」だったのだ。
ヒロにいた当時は、ノンキにブラブラと散歩しながらロコモコを食べに行っていた「CAFE100」は、実は日系人の不屈の魂に支えられた店だった。私たちが通っていた当時の様相から比べると、店のたたずまいが随分変わったが、娘のゲイル・ミヤシロさんは今は亡き父親の遺志を立派に継ぎ、現在もなお「CAFE100」はヒロの町にとって大切な日系人の心のふるさとのような存在になっている
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】8月16日から1週間、ベトナムへ行く。丁度ハワイで生活をしていた1975年、ベトナム戦争が終結した。テレビでは毎日のようにPOWがアメリカに帰国する姿が映し出された。他人事とは思えなかった。それから40年近く経った今、ベトナムを訪れるのは、感慨深いものがある。
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毎週末集まるヨコヤマさんの友人の中に、Iさんという夫婦がいた。他の日系二世の人たちとちょっと違う雰囲気で、何となく気になっていた。奥さんはハワイの日系人ではなく日本から来た人で、どことなく知性を漂わせた色白の女性だった。ご主人は穏やかな優しい雰囲気の日系人なのだが、日系二世特有のアクセントがない。私たちの日本語とほとんど変わらないのだ。それにIさんは、言葉だけでなく、雰囲気も他の日系二世とは違っているように思えた。
その後ヨコヤマさん宅での集まりでいろいろと話を聞いているうちに、Iさんがきれいな日本語を話す理由が徐々に分かってきた。滅多に話題に出てこなかったのだが、わずかな情報をかき集めると、第二次世界大戦が始まる以前に、Iさんは日本に行って明治大学に入学したらしい。明治大学では、当時このようにハワイやメインランドからの日系人を積極的に受け入れていたということだ。Iさんの両親は息子に日本での教育を受けさせたいと願い、彼を日本に送った。ところがそれから日米の間で戦争が始まり、Iさんはハワイに帰る機会を失い、日本に残った。
当時ハワイの日系一世は、自分達は移民としてアメリカ社会にうずもれるとしても、二世にはなんとかハワイの社会で成功して欲しいと強く願っていた。そのためにはまず教育だ。サトウキビ畑などで血の滲むような苦労を重ねながら、二世の教育のためにあらゆる犠牲を払った。その精神を受け継いだ二世は、白人の家庭で働きながら教育費を稼ぎ、必死に勉学に励む者も多かった。そういう青年達は「スクールボーイ」と呼ばれ、学業成績は大変良かったという。1940年以降の日系人の就学率は、白人を含むどの人種よりも高かったというから驚きだ。(「ハワイ日系人史」より)
日系人の大半はアメリカの文化に早くなじみ、堅実な中産階級を目指して、目立たないように暮らすことが最も安全と考えた。彼らが "Quiet American(静かなアメリカ人)"と呼ばれていたのもうなずける。その一方で、Iさんの両親のように日本に目を向ける一世もいた。彼らは子供たちを日本に送り、祖国日本の文化を学ばせたいと願ったのだ。こうして日本に留学し、その後再びアメリカへ戻った日系人は「帰米二世」または単に「キベイ」と言われていた。
第二次世界大戦が始まる以前にハワイへ戻った帰米二世は、そのたくみな日本語を駆使して、日本軍の暗号解読をしたり、日本の情報をアメリカ軍に提供したりしたらしい。一方、日本に残った日系留学生の大半は戦時中、学徒動員で軍需工場で働いたり、短波放送の傍受や翻訳をやらされたりした(「ハワイ研究への招待」関西学院大学出版会)。そのため、日本人である両親がアメリカにいて、アメリカ国籍を取得した息子は日本から戻れないという悲しい状況に陥ったのだった。
以前ヨコヤマさんが私にくれた、移民百年記念誌「ハワイ島日本人移民史」(ヒロタイムズ)のパホア町の名簿を見ると、Iさんの職業は「日本語教師」とある。ハワイに生まれ、日本に留学し、「キベイ」としてハワイへ戻り、日本人の妻との新しい生活を始めたIさん。この「日本語教師」の文字の陰には、言葉にはできない重い戦争の歴史が隠されている気がしてならない。しかしそれをあえて掘り起こしても一体何になるのか。戦争という大きな力に翻弄された人々の、悲しい人生が湧き出てくるだけではないだろうか。当時、「キベイ」という言葉さえ知らなかった私に、日本での生活を訪ねられても、Iさんは口を開かなかっただろう。日本とアメリカの狭間でのどうにもならない戦時下の運命など、語る言葉は見つかるはずもないのだから。