やさしいHAWAI’ I

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第35回:命の再生
2013年02月13日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】日本女子アイスホッケーが、オリンピック出場を決めた。アイスホッケーと言えば「ラブストーリー」を思い出す。スティックでたたき合い殴り合う、荒っぽい大男のイメージが強いスポーツに、ついに女子が参戦。でもヘルメットを脱げば、笑顔のかわいい女の子だ。オリンピックでは、メダルを目指して頑張って!!
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現在のキラウエア火山の活動は25年以上も前に始まり、今もなお続いている。私が2カ月間ハワイに滞在していた2002年も、活発な噴火活動があった。当時、溶岩流を間近で見られるというニュースを聞いた私は、数人の仲間と一緒に様子を見に行くことにした。

ヒロの町から、走り慣れた国道11号線を車でおよそ40分南へ行くと、ボルケーノ・ナショナル・パークに着く。キラウエア火山は、世界の活火山の中でもその活動を目の当たりにできる数少ない火山の1つだ。パークでは、まずビジターセンターへ行き、現在の溶岩の流れの状況を尋ねた。時によって溶岩から発生する有毒ガスが周辺に蔓延し、立ち入り禁止地域が発表されることがあるので、必ず現況を知っておかなければならないのだ。

35-image001.jpg徐々に陽が落ちていくなか、溶岩流のある地域へと車で入っていく。すると、左右にはまるで、「太古の様相」とも言える風景が広がっていた。古い溶岩流はあちらこちらですでに崩壊を始め、新しい物は銀色にギラギラと光り、流れの形をそのまま留めている。まさにこの地球が誕生した時はこうだったのでは、と思わせる景色だった。
日もとっぷりと暮れた頃、多くの車が駐車している道路わきに私たちも車をとめて歩き始める。火山の噴火が始まるとハワイ島のみならず、他の島から、そしてアメリカ本土からも、大勢の人が島の誕生の現場を目撃しようとやって来る。周囲は何も見えない真っ暗闇。空を見上げると地平線から地平線まで、文字通り満点の星だ。

35-image003.jpgその中をキラウエアに住む火の女神・ペレの「心臓の鼓動」とも言うべき溶岩流を求め、懐中電灯の明かりだけを頼りに、ゴツゴツとした溶岩の上を歩いていく。すると、小さな「バチバチ...」という、何かが燃えてはじけるような音が聞こえ、圧倒的な熱を感じた。さらに近づいてみると、そこに現れたのは黒い表面を割って流れる出す真っ赤な溶岩だった。猛烈な熱を発しながら、私の足元の2~3メートル先をゆっくりと流れている。もしこの中に飛び込んだら、私の身体は一瞬のうちに煙となってしまうのだろう。しっかりと足を踏ん張っていないと、何だかペレの力によって引き込まれてしまいそうな気がする。

そんな時だった。目の前の溶岩に興奮したのか、すぐわきにいた観光客の若い男性2人が、大声でふざけながら溶岩の上に足を乗せようと近づいたのだ。表面が黒くなっている部分は触れても大丈夫とでも思ったのだろうか。それを見ていたローカルの女性が大きな毅然とした声で、「やめなさい!死ぬつもりなの。ペレの怒りに触れるわよ!!」と叫んだ。その声に一瞬ひるんだ2人は、我に返って溶岩から離れた。本当に危機一髪だった。無知とはいえ、あまりに危険な行動だった。たとえ表面が空気に触れて少し温度が低くなっているとはいえ、溶岩の温度はおよそ1000度。そうした危険をはらんでいるだけでなく、何よりハワイの人々にとってペレは神聖な存在である。それを冒涜するような行動は、誰であろうと決して許されないのだ。

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〔古い溶岩の割れ目から芽吹くオヒヤ〕    〔ペレの髪の毛のような溶岩流〕

  溶岩は、流れの先にあるすべての生命を焼き尽くす。後に残るのは、ギラギラと黒光りして波打つペレの黒髪。その後長い時を経て砕け始めた溶岩の割れ目からは、シダやオヒヤが芽を出す。ペレの怒りと共に噴出した溶岩は大地を覆い、すべてが死滅したかに見えるが、こうして確実に「命の再生」は繰り返されるのだ。

第34回:「ALOHA」に込められた意味
2013年01月11日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】今年の冬は特に寒いように感じる。昨年暮れ、少し疲れもあったのだろう、風邪をこじらせ咳が長いこと続いた。こんな時この原稿を書いていると、今すぐにでもハワイへ飛んでいきたい気持ちに駆られる。
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ハワイの言葉と言えば、一番有名なのが「ALOHA」だ。挨拶として使われることでよく知られているが、ハワイ語の辞書として、もっとも権威のある「Hawaiian Dictionary by Mary Kawena Pukui and Samuel H.Elbert」によると、「ALOHA」には次のような意味が出ている。
「love, affection, compassion, mercy, sympathy, pity, kindness, sentiment, grace ・・・(愛、慈愛、思いやり、情け深さ、憐憫の情、同情心、親切、なさけ、厚情・・・)」 しかし、実は「ALOHA」にはもっと奥深い意味が含まれているのだ。

A ハワイ語の Akahai のA "優しさと思いやり"
L ハワイ語の Lokahi のL "調和と融合"
O ハワイ語の Oluolu のO "喜びをもって柔和に"
H ハワイ語の Haahaa のH "ひたすら謙虚で"
A ハワイ語の Ahonui のA "忍耐と我慢"
   (ハワイ州観光局のメルマガと上記のHawaiian Dictionaryを参照)

つまり、人への思いやり、心の温かさを、見返りを求めず無償で与え、相手に対してはひたすら謙虚に忍び耐えること・・・それが「ALOHA」の本質だ。
ハワイ大学のサマーセッションに参加するため、約2ヵ月間ヒロに滞在した時のこと。
1ヵ月ほど授業を受けた後、私はどうしてもヒロから北へ続く大好きなハマクアコーストの海を見たくなった。右手に続く美しい海を楽しみながら、幾重にも続く谷を巡り北へ車を走らせると、ホノカアという町に着く。

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〔映画『ホノカアボーイ』の舞台となった、ホノカアの映画館〕

日本では、2009年に公開された岡田将生主演の映画『ホノカアボーイ』の舞台として知られた町。ハワイ島北東部、先住民の王族が居住していた谷・ワイピオバレーの入り口にあり、のどかな昔のハワイの町を髣髴とさせる素敵な場所だ。

そのホノカアで、私はハワイの歴史、地理などに関する古書を探そうと、1軒のアンティークの店に入った。店の主人の名前はグレース。ハワイの歴史が大好きな彼女とは、大いに話が盛り上がった。私が100ドルほど古書を買い漁ると、「これで1日の売り上げは得たから今日はもう店を閉める」と言う。そして聖なる谷・ワイピオバレーを見せたいと、車で谷を見下ろせる場所へ私を連れて行ってくれた上に、家族の皆さんと一緒に夕食のバーベキューにまで誘ってくれたのだ。たまたま店に入ったどこの馬の骨とも分からない日本人の私を、グレースは心から歓迎してくれた。ハワイの素晴らしい夕陽を浴び、赤く染まる海を眺めながらのバーベキューは、私にとって一生忘れられない思い出となった。

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〔グレースのアンティークショップ〕

夜も更けヒロに戻ろうとして、溢れる感謝の気持ちを伝えた時、彼女は私にこう言った。
「This is the Hawaiian hospitality, spirit of Aloha(これがハワイのもてなしよ。アロハの心なの) 」 

グレースは、映画『ホノカアボーイ』にもチラリと登場した。バーベキューから何年も経って、日本でその姿をスクリーンで見つけた時、私は別れ際に彼女が言った"アロハの心"という言葉を思い出した。それと同時に、あのときの光景が目に浮かび、何とも言えない懐かしさで胸が熱くなったのだった。

第33回:青い小瓶
2012年11月29日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】2人目の孫(女の子)の出産を前に、なんとなく落ち着かない日々を送っている。最初の孫は男の子でつい先日4歳になった。先日我が家に遊びに来て、こんなことがあった。 「僕、もう赤ちゃんやめたの」と言う一方で、パパとママから少し離れたところで「やっぱりまだ甘えたい」と私に告白したのだ。頭のどこかで妹の出産を理解しようとしている心の葛藤を見た気がして、切なくなった。
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先日、テレビで久しぶりに『秘密のケンミンSHOW』を見た。ご存知だと思うが、これは日本各県の様々な名産品、県民性などを取り上げ、面白おかしく紹介する番組だが、その特徴を良く捕らえてなかなか興味深い。今回は大阪の女性が「神戸の人みたいね」と言われるととても喜ぶ、ということを紹介していた。神戸の人は洗練されて、スマートなイメージがあり、大阪の女性の憧れだそうだ。

それを見ているうちに、思い出したことがあった。

10年ほど前ハワイ大学の夏季セッションに参加するため、ヒロで2ヵ月一人で生活したことがあった。私は暇にまかせて、ナップサックを背負いアパートからヒロのダウンタウンまで、毎日のように歩いた。特に水曜日と土曜日は、ダウンタウンで開かれるファーマーズマーケットで、大好きなパパイヤを買うのが楽しみだった。4つで1ドルのパパイヤを1山欲しいと言うと、"オマケだよ"と言って2山くれる。ナップサックはパパイヤでいっぱいになり、帰り道が大変だった。

車だとつい通り過ぎてしまうところも、歩くと周囲の景色は違って見え、あちこち頭を突っ込みたくなるものだ。ある日、前を通るたびに気になっていた小さなアンティークの店に立ち寄ってみた。中には歴史を背負った興味深い品物がずらりと並び、同じように歴史を背負っているような日系のおばあちゃんが一人店番をしていた。私が日本からやって来たことが分かると、うれしそうに日本語で話しかけてきた。日本ではどこに住んでいるか、ハワイは初めてかなどといろいろと尋ねられていたところに、もう1人の日系のおばあちゃんが店に入ってきた。店主の友人らしい。店主はそれまでの話から、私が日本からやってきたこと、昔ヒロに住んでいたことなどをその友人に説明した。するとその店主の友人は、今度は私に親しげに話しかけてきた。

33-image001.jpg「私はね、ヒロ出身じゃあないの。ホノルルのギョール(girlのこと。かつてアメリカ人の発音がこう聞こえたのだろう。今でも日系二世は女の子のことをこのように言う)だったのよ、こんな田舎のヒロの出じゃなくて、ホノルルのシティギョールだったのよ・・・」彼女は何度もそう言った。少々勝ち気そうな表情には、ホノルル出身であることに確固たる誇りを持っていることがはっきりと感じられた。

私はその言葉を聞いて、衝撃を受けた。同じ日系人の間でも、"ホノルル出身者は都会の出"、という感覚があるということをその時初めて知ったのだ。そういえば、夫の転勤で最初にハワイにやって来た時、ホノルルに次ぐ第2の都市と聞いていたヒロを、私も人口4万人の田舎町だと思った。でも"田舎町の何が悪いのだ"と今は思う。ヒロは私の第二の故郷。世界中探してもこんなに心にしみる優しさを持った町はない。私はかつてのシティギョールにそう言いたかった。

それでも、話が弾んで何か買わずにいられなくなり、店の中を物色したところ、とても興味深いものを見つけた。高さ8センチ、幅3センチほどの青いガラスの小瓶だ。「Japanese Medicine $18.00 」とラベルが張ってある。びんのガラスの表面には「志らが赤毛染 ナイス」という文字が浮き出ている。これにはかつての日系人が使った毛染め薬が入っていたのだ。意外だったのは、それが「赤毛染め」となっていたことだった。彼女たちは白髪を黒ではなく赤毛に染めたのだろうか。白人のような髪の色にしたかったのだろうか・・・。目の前にいるホノルル出身のシティギョールを見つめながら、彼女の遠い昔の日々に思いを馳せた。

第32回:GOKUROSAMA
2012年11月09日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】久しぶりに風邪をひいてしまった。毎日の気温差が大きいこの頃、気を付けないとと思っていたのだが・・・。体調を崩して改めて、健康のありがたさを痛感。みなさんもお気を付けください。
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まだヨコヤマさんが元気だった頃、私は土曜日の朝にはよくヨコヤマさんと一緒にヒロのダウンタウンへでかけ、日系人が経営する小さなコーヒーショップで朝食を食べていた。ヨコヤマさんのお気に入りは"ポチギーソーセージ"とスクランブルエッグにパンケーキ。ポチギ―ソーセージはボルトガルのちょっとスパイシーなソーセージで、初めて口にした時から私の大のお気に入りになった。コーヒーは何杯飲んでも値段は同じ。周囲には日系二世、三世の家族連れが大勢いて、たまり場のようになっていた。顔馴染みに会うとたちまち話に花が咲く。私たちがヒロで生活をした1970年代は、40代前後の日系二世が社会の中心になって活躍している、活気溢れる時代だった。「パホアにいる○○さんのアンセリウムの商売がうまくいっていて、パパイヤも輸出用に空港に入れているそうだ」「今度○○さんの家で銀婚式があって、カルアピッグ(豚の丸焼き)をするそうだ」などと、景気の良い話が次から次へと出てくる、古き良き時代だった。豆腐屋に生まれたジョージ・アリヨシが日系人で初のハワイ州知事になったのもこのころ。彼の州知事就任は、日系二世の力がハワイの社会に認められた証だった。

時が過ぎれば、様々な変化が起きる。5年ほど前に訪れた時は、二世のたまり場はダウンタウンのコーヒーショップからバーガーキングに変わっていた。80歳をとうに過ぎた日系二世のおじいさんが、頭にヘッドフォーンをつけて音楽を聴きながらコーヒーを飲んでいる。時代はこんなところでも大きく変わっていた。

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〔バーガーキングで見かけた頭にヘッドフォーンをつけた日系の年配のおじいさん〕


その頃は、シマダさんも朝食はバーガーキングがお気に入りだった。特に水曜日にはパホアに住んでいる友人のクボ夫妻が、ヒロのバーガーキングにやってくる。クボ夫妻というのは、前回ラバツリーパーク州立公園の帰りに、海苔巻ベントウを食べるために寄らせていただいた家のご夫婦だ。パホアとヒロは車でおよそ30分。すでに90歳近い高齢になった日系二世にとって、この距離を運転するのはかなりの勇気がいる。シマダさんはもう長距離の運転はできなくなっていた。しかし毎週水曜日はクボ夫妻のご主人が、目が悪いにもかかわらず、ゆっくりと車を運転してヒロの町までやって来る。これが週に1回の楽しみなのだ。私たちがシマダさんを車に乗せてバーガーキングに到着すると、すでに店内は多くの日系二世で賑わっていた。ほとんどの人が、コーヒーだけを注文してソファーに座り、話し込んでいる。その内容がつい耳に入る。「○○さんが病気で入院したそうだ・・・」「○○さんが先月亡くなってね・・・」特徴のある英語と日本語が混ざったピジンイングリッシュで語られる話のほとんどが日系人仲間のそんな動向だった。大半の日系二世はすでに高齢のため、こういう哀しい話題が多かった。

だが日系一世、二世の築いてきたハワイの社会は、三世、四世の若い世代によってしっかり受け継がれている。今のハワイ日系人社会があるのは、移民時代に始まる一世、二世の大変な苦労のおかげということを心に刻んでいる若い世代は、本当に年配者を大切にする。

ハワイでは2007年、日本では2011年にハワイ日系四世の写真家Brian Y.Satoさんが、9年にわたって日系二世を撮り続けた写真展を開いた。モノクロで撮られた写真を展示した、このイベントのタイトルは「GOKUROSAMA」。年配者に対する若い世代の感謝の気持ちがタイトルになった。できることならこの写真集の中に、ヨコヤマさんの姿も入れたかった。「ヨコヤマさん、ご苦労様でした」

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〔バーガーキングに集う       Brian Sato氏の写真展の
クボ夫妻とシマダさん〕      日系二世写真集「GOKUROSAMA」

(久保さんのご主人は、昨年亡くなりました。心からご冥福を祈ります。)

第31回:カミンサイ  入いんなさい
2012年10月04日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】テニス楽天ジャパンオープンが始まった。今回日本選手は4名の出場。そのうち1回戦突破は錦織と伊藤の2選手。それにしても日本選手が強くなった。世界を舞台に、ランキング17位は錦織、添田と伊藤は50位まで手が届くところにいる。テニスには目がない私にとって、胸躍る毎日が続く。
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前回取り上げた「ピジンイングリッシュ」は、私にとって懐かしさを感じる言葉だ。そして、今もなお忘れられない思い出がある。

ヨコヤマさんの妹・シマダさんと一緒に、パホアの町から近いラバツリー・パーク州立公園を訪れたときのこと。公園は工事中ということで人の気配が全くなかった。ランチ用に買ってきた"海苔巻ベントウ"を抱えながら食べる場所を探していると、駐車場にトラックが1台入ってきた。荷台にはヒッピー風の若者達が数人。何となく異様な雰囲気を感じたシマダさんが「アツコさん、ここを出ましょう」と言ってきた。

「パホアに私のグッドフレンドがいるよ。名前はクボさん。あそこに行きましょう。確か昨日、ラスベガスから帰ってきたはずだから。家がどこかはっきりしないけど、行ってみれば分かると思うよ。ポストオフィスの2軒か3軒向こうのはずだから」。昨日ラスベガスから帰ったばかりのお宅、しかも正確な場所を覚えていない家へ、見ず知らずの私たちを連れて突然の訪問・・・いくらシマダさんのグッドフレンドでも、果たして急に押しかけても良いものだろうか。

そんな気持ちを抱きつつ、パホアのポストオフィスを目指す私たち。ゆっくり車を走らせながら一軒一軒探していくと、シマダさんが「ああ、あれ、きっとあれよ。何となく覚えてるよ」と、ある家を指差した。そして車を降りると、家の奥に向かって「Hello, Mrs. Kubo. Are you there?(クボさん、いますか?)」と大声で呼びかけた。目的の家かどうかもはっきり分からないのに、だ。すると中から、「Who's there?(どなた?)」と、日系の小柄な優しい顔立ちのおばあちゃまが姿を現した。「オー、ミシズ・シマダ。どうしたの?」どうやらクボさんの家で間違いなかったらしい。

「今、私たちラバツリー・パークでランチ食べようとしたら、若いハオレたち(白人のことをハワイ語でこう言う)が来て、怖くなったからやめたのよ。そして私、パホアにグッドフレンドがいるから、そこに行こうと言ったの。この人たち日本から来た、ミスター・アンド・ミシズ・オギハラね」と私たちを紹介してくれた。するとクボさんは、全くの初対面にもかかわらず、私たちを「おー、よく来たね。カミンサイ、カミンサイ」と招き入れてくれた。「カミンサイ」は英語を母国語としている人には、おそらく通じないだろう。これもピジンイングリッシュのひとつだからだ。
かつて日系人は、英語を聞こえたとおりの言い方で使っていた。「Come inside」も、日系人の間では「カミンサイ」としてそのまま定着。私にはこの「カミンサイ」がいつも「入いんなさい」に聞こえていた。

「昨日ラスベガスから帰ってきたばかりで、ハウスはひどいことなっとるけど、遠慮はいらんから、上がんなさい」。するとシマダさんが「ほら、グッドフレンドと言ったでしょ。ミシズ・クボは、初めての人にもとっても良くしてくれるのよ。」と得意そうに話す。私たちは、昔ヨコヤマさんに「人が好意を示してくれたら遠慮しないでJust say thank you」と言われたのを思い出し、図々しくお宅に上がらせてもらった。

31-image001.jpg居間では、クボさんのご主人もニコニコしながら私たちを迎え入れてくれた。確かに部屋は大変な状態になっていて、旅の間に出た洗濯物が山のように積まれていた。それでもクボさんは私たちを食卓のテーブルへ連れて行き、「座んなさい、座んなさい、遠慮はいらんから」と席を勧めてくれる。「飲み物は何がいいかね」と尋ねられると、シマダさんが「ランチを持ってきたから、水だけでいいよ」と答えた。「海苔巻きベントウを買ってきたから」。

「おー、そうかね。このごろ、ラバツリー・パークは少し怖くなったね。人がおらん時はあまりいかんほうがええね。マイ・ハウスに来てくれてよかった」。そう言って、ニコニコしながら飲み物を用意してくれる。そのほかにもいろいろ出してくれ、テーブルはたちまち食べ物でいっぱいになった。

しばらく楽しい時間を過ごした後、シマダさんが「Now, we're leaving.. Thank you so much, Mr. and Mrs. Kubo(そろそろ帰るよ。本当にありがとう)」と言って席を立った。するとミシズ・クボは、「なら、ちょっと待ちなさい。」と、大きな袋に入れた手作りクッキーとビーフジャーキー1袋をお土産にくれた。そして私たちの手を握りながら「また来なさいね、また来なさいね」と、何度も言うのだった。

初めて会う私たちを暖かく迎え入れ、お土産まで持たせてくれたクボさん。そんなクボさんの「カミンサイ」は、いつまでも私の心に優しく響いていた。それはまるで秋田の祖母の家を訪れた時に感じた気分と同じだった。

第30回:ハワイのピジン・イングリッシュ
2012年09月07日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】ついにデスクトップが壊れた!! 最近どうも立ち上がりにあまりに時間がかかりイライラしていたのだが、とうとうその時が来てしまった。使い慣れたPCを廃棄処分にするのは、なんだか片腕をもがれるようで心が痛む。
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みなさんは、"ピジン・イングリッシュ"という言葉を聞いたことがあるだろうか?

ハワイで生活をしていた当時、親しくしていた日系二世のヨコヤマさんから最初にこの言葉を聞いた時、私は"ピジン(pidgin)"を"ピジョン(pigeon鳩)"の意味で言っているのだろうと誤解していた。"ハワイの日系人の少しブロークンな英語を、鳩の鳴き声のような英語という表現をしている"と思ったのだ。

『ハワイ研究への招待』(関西学院大学出版会)によると、『ピジン"とは、"共通の言語を持たない人々の間でコミュニケーションの手段として用いられる、簡略化された補助言語』と定義されている。かつて移民としてハワイへやって来た日本人は、英語はもちろん、ハワイ語も当然分からなかった。しかし生活を続けていくためには、白人、ハワイの先住民、そしてさまざまな国から来た移民たちとの間で、お互いの意思疎通を図ることが必要となってくる。そのためのツールとして、複数の言語を取り入れた独特の言葉が自然に作られていった。この言葉を"ピジン語"というわけだ。ハワイの日系人の場合は、英語、日本語の出身地の方言、そしてハワイ語などが混在しており、現在も使われ続けている。

ヨコヤマさんも普段はピジン語を使い、「ハオレ(白人)」、「モエモエ(眠る)」、「パウ(終わり)、「プカ(穴)」、「オノ(美味しい)」、「マケ(死ぬ)」、などのハワイ語に、「イチバン」「ベントウ」「スコシ」「カライ」「イタイ」「ジョウトウ」などの日本語を混ぜ、最後は出身地・広島の方言「じゃけんのう」で終わる話し方だった。

例えば、「あとでダウンタウンに行って朝食を食べよう。あそこのポチギーソーセージ(スパイシーなポルトガルのソーセージ)は、すごく美味しいんだ。一番だよ」は、「Bumbye we go downtown and have breakfast. That Portuguese sausage, oh! Ono. Ichiban jakenno」(Bumbyeは"あとで"というピジン語。ヨコヤマさんはこの言葉を最も頻繁に使っていた。Ono はハワイ語で"美味しい")、という具合だ。

日系人Milton Murayamaによる小説『All I asking for is my body』は1930年代、第2次世界大戦を背景にハワイへ移民した日系一世、二世が、移民キャンプでの貧しい暮らしの中で必死に生きていく姿を綴った作品だ。その中に、子供のセリフとして、次のような文が出てくる。

"Go tell that kodomo taisho to go play with guys his own age. You know why he doan play with us? Because he scared, thass why. He too wahine"
kodomo taisho は "子供大将"、つまりガキ大将を指す。Doan は "don't"、Thass why は "That's why"、Wahine はハワイ語で"女性"のことだ。すなわち、この文は「あのガキ大将のところへ行って、『同じ歳の奴らと遊べ』と言えよ。なぜヤツが俺達と遊ばないか知ってるか? 怖いからだよ。ヤツは女のように意気地がないのさ」という意味になる。

短い中に、日本語、英語、ハワイ語が混在しているセリフだが、この作品に登場する子供たち(日系二世)は、話す相手によって言語を使い分けている。教師の前では"良い英語"、友人同士では"ピジン・イングリッシュ" (当時学校では、ピジン・イングリッシュは教養のない言葉とされ、話すことを禁じられていた)、日本から遠い異国の地で厳しい移民生活を送る、日本語しか話せない両親には"日本語"というように。子供たちにとってハワイは生まれ故郷だ。周囲の白人やハワイ先住民、そして中国やフィリピンなど様々な国の移民たちとの間で、子供同士の交流も始まる。ピジン語は、互いに何とか馴染もうとして生まれた。日系二世の生きるたくましさが感じられる言葉だ。

"ピジン語"は今でも、若い世代の中に根強く生き続けている。しかしそれは、かつての日系二世たちが生活をする必要性から生まれてきた"ピジン語"とは少し異なる。現在は、新しい世代としての自分達のアイデンティティを、クールに自己表現する1つの道具になっているのだ。

かつての私がそうだったように、ピジン・イングリッシュを"ブロークン・イングリッシュ"と簡単に片付ける人もいるが、それは違う。ハワイにおけるピジン語は、日系人がハワイでたどってきた生活が沁み込んだ、貴重な歴史の痕跡なのだ。

第29回:真のカメハメハ大王の姿
2012年07月05日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】テニスは、全仏大会に続き、現在ウィンブルドンが開催されている。 トップ選手たちの、しのぎを削る日々の戦いを観ていると、世界を舞台にすることの困難さを痛感する。今年はオリンピックの年。スポーツの素晴らしい興奮に浸りたい。
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皆さんは、1976年4月にNHKの"みんなのうた"で登場した、『南の島のハメハメハ大王』をご存知だろうか。

南の島の大王(だいおう)は  その名も偉大(いだい)なハメハメハ
ロマンチックな王様で
風のすべてが彼の歌  星のすべてが彼の夢
ハメハメハ ハメハメハ ハメハメハメハメハ

29-image001.jpgのサムネール画像この歌の"ハメハメハ"という名が、ハワイ諸島を初めて統一したカメハメハ大王の名から導かれたかどうかは定かではない。しかし歌詞の内容は、一般的に良く知られたカメハメハのイメージとはかなりかけ離れている。また、右にあるのは、ハワイの歴史資料館として有名なビショップ博物館に展示されている、カメハメハ大王の肖像画だが、シャツに蝶ネクタイというスタイルのカメハメハは、あの有名な金色のマントの大王像とはまるで別人のように見える。




では実際のカメハメハとは、一体どんな人物だったのだろう。
カメハメハがいつ生まれたのか正確には分かっていないが、1758年あたりだと言われている。キャプテンクックがハワイ諸島を発見したのが1778年。カメハメハが20歳前後のころだ。当時はまだ多くの族長が各島々を治めていたが、この先10余年をかけてカメハメハがハワイ王国成立に成功するに至った理由は、いくつか考えられる。

元来ハワイの社会には、強い忠誠心が存在しなかった。部族間での婚姻が頻繁に行われ、族長が変わる度に平民は新しい族長の下で生活をした。自分の地域で戦いが起こり、トップが替わったからと言って、生活自体が大きく変わるという感覚はなかったのだろう。人々は物に対する所有欲がほとんどなく、日々生きていくために必要な物を地域で共有できれば、それで充足していた。

そんなハワイの社会で、人々にとって強烈なカリスマ性あふれる存在だったのがカメハメハだ。キャプテンクックがハワイ諸島を発見して以降、ハワイには西欧文化の大きな波が押し寄せてきた。彼らは銃を使い、それまでハワイには存在しなかった様々な鉄の武器や大砲、そして新しい戦略の知識も持っていた。カメハメハは、巧みな外交手腕と明晰な頭脳でそれらの白人の知恵や道具をうまく利用し、自分の勢力を徐々に他の島々に広げていった。実際のカメハメハはNHKの"みんなの歌"に登場した「ハメハメハ」のような人物ではなく、ハワイ統一の野心に激しく燃える男だったのだ。

また、ルックスに関して言えば、 "カメハメハは、大王像のような男前ではなかった"というのが通説だ。しかし体つきは頑強で力が強く、運動能力に優れており、族長としては魅力溢れる人物だったに違いない。私がよく通ったハワイ島のヒロ図書館の前には、カメハメハが持ち上げたと言われている「ナハ・ストーン」と呼ばれる石が横たわっている。しかしこの石の重さは、なんと3トン。人間がそんな石を持ち上げることなど不可能だ。カメハメハは半ば神格化されるほどの人物だったのだろう。

  29-image005.jpg        29-image003.jpg

〔ヒロ図書館に前にある、カメハメハが持ち上げた   〔カメハメハお気に入りのお后
言われる「ナハ・ストーン」〕                 カアフマヌ〕

だが、そんな彼にもたったひとつ弱点があった。それが、お気に入りのお后、カアフマヌの存在だった。かつてのハワイで、美の条件の1つとされていたのが、ふくよかであること。肌の色もひときわ白く、その腕は"皮をむいたバナナのよう"と称されており、多くの恋人がいたらしい。カメハメハは彼女の浮気にやきもきしていたそうだが、そんな記述を読むと、大王像から感じるスーパーマン的な印象の中に、血の通った普通の男の姿が垣間見えた気がした。

カメハメハは西欧文化を利用はしたものの、その統治下に置かれることを拒否し、ハワイの独立を守ろうとした。そんなカメハメハに対し、白人たちは強引な態度に出ることができなかった。しかし当時、まだ文字を持たなかったハワイの社会で、その強い姿勢を維持するのはたやすいことではなかったのだ。

カメハメハ亡き後、お后のカアフマヌは摂政として政治にかかわった。それまでのハワイには、生活すべてに関し事細かなカプ(タブー)制度があり、男女が同席して食事をすることや、女性がブタやバナナを食べることなど、多くのことが禁じられていた。カアフマヌはこれらのカプを廃止し、それまで力を持っていたカフナ(神官)たちの力を弱めるために、従来のハワイの宗教も禁止した。1820年、最初のキリスト教伝道師がハワイにやって来た後は、自らも洗礼を受けてエリザベスと名乗った。

その結果、カメハメハが堅守していた白人との壁が崩れ、世界のどの大陸からも最も遠く隔離された環境にあったハワイに、西欧文化がどっと押し寄せてくることになる。それがハワイにとって本当に良かったのかは、簡単に結論をくだすことができない。しかし、確実に言えることは、歴史の大波の力に逆らうことは、到底不可能だったということだ。

参考資料:THE HAWAIIAN KINGDOM (BY KUYKENDALL)
KAAHUMANU- MOLDER OF CHANGE (BY JANE.L. SILVERMAN)
MONARCHY IN HAWAII (BY JOHN DOMINIS HOLT)
THE POLYNESIAN FAMILY SYSTEM IN KA'U, HAWAI'I (BY E.S.CRAIGHILL HANDY AND MARY KAWENA PUKUI) 

第28回:カメハメハ大王像は全部で何体?
2012年06月08日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】先日、ハワイのシマダさんを通して知り合いになった友人のフラダンスを見に行った。基本的に"フラはハワイの人が踊るべき"と信じていた私は、心から楽しそうに踊る皆さんを見て、そんなこだわりはあっさりと捨ててしまった。楽しいひと時だった。
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ハワイでの歴史的人物として最初に挙がる名前と言えば、カメハメハ大王だ。ハワイ諸島を初めて統一した彼は銅像にもなっており、本物はもちろん、テレビや雑誌で見たことがある人も多いだろう。

28-image001.jpg最も有名なカメハメハ大王像は、オアフ島・ホノルルの最高裁判所の前に立っている。筋骨隆々とし、金色のヘルメットとマントを身につけて颯爽とポーズを取っているが、実はこれがオリジナルの像ではないのをご存知だろうか。

今からおよそ130年前、ハワイ王国7代目となるカラカウア王は、戴冠式に合わせてイタリアのフィレンツェでカメハメハ大王像を造らせた。ところが、完成した像を乗せた輸送船はハワイへ向かう途中で沈没。これにより、大王像は行方不明になってしまった。やむなく再び造らせたものが、現在ホノルルに建っているこの像である。

28-image003.jpgそしてその2年後、行方不明だったオリジナル像が発見される。州議会はカメハメハ生誕の地、ハワイ島のノースコハラに設置することを決定。現在は旧コハラ裁判所の前に立っている。私がハワイで親しくしていたリチャード・ヨコヤマさんはコハラ出身で、この像をとても誇りに思い、「オリジナルはホノルルのではなく、コハラの像だ」とよく話していたのを思い出す。

そんなこともあって、私は「ハワイ島のカメハメハ大王像」と言えば、このコハラのものだけだと思っていた。ところが15年ほど前、再びヒロを訪れた時のことだ。懐かしいヒロ湾の近くを車で通りかかった時、車窓から見たヤシの木々の間に、カメハメハ大王像の姿がちらりと目に入った。「えっ! こんなところにカメハメハ?」

28-image005.jpgヒロ湾に面した州立公園に立っていたその像は、ある企業がカウアイ島のリゾート地の入り口に立てようとしたものだそうだ。ところが、カウアイ島はハワイ諸島統一の際、カメハメハの武力制圧に屈しなかった島。この像についても、島民から抗議が噴出した。そこでこれもまた、ハワイ島に運ばれることになった。カメハメハがハワイ諸島統一を図ったのが1790年代。それから長い時を経た今もなお、カウアイ島民の誇りが息づいていることを表すエピソードで、何とも興味深い。


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そして、アメリカにはもう1体カメハメハ像が存在する。ワシントンDCにある、合衆国議会議事堂の中の「National Statuary Hall」にコレクションとして納められているのがそれだ。このホールには各州における歴史的人物の像が2体ずつ寄贈されている。合計100体ある像の中で、これは重さ6トン以上と最も重いため、床には特別な補強がされているそうだ。



有名な人物が銅像となるケースは多々ある。日本で考えても、西郷隆盛像は上野にあるだけでなく、生誕地の鹿児島には少なくとも3体はあるという。もしかすると、銅像の数は人気を表しているのかもしれないが、あまりあちこちにあるとありがたみがなくなるような気もする。 "カメハメハ大王像"はアメリカ国内に全部で4体存在するが、これ以上はもういらないと思っている。

第27回:奇遇
2012年05月11日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】たけのこの炊き込みご飯や蕗の炒め物。季節感いっぱいの春を楽しんだが、例年と違うのは花粉症。いったいどうしたのかと思っていたら、どうも昨日あたりからクシャミが出始めた。今年の寒い春でけやきの花粉が出遅れたのかな??
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ハワイへ行って間もなくのことだ。夫が仕事に出かけてしまえば、日中は私一人。狭いアパートを掃除し洗濯を終えれば、他に何もすることはない。時間を持て余した私は、自分用の車を持ち行動範囲が広くなったこともあり、ハワイ大学で聴講をしようと思い立った。特に何を勉強したいというわけでもなかったので、とりあえず日本で通った大学の専科、アメリカ文学のクラスをとることにした。

ハワイ大学はとてもオープンで、聴講を希望する者には年齢、国籍に関係なく門戸は広く開かれている。試験も一般学生と同等に受けることができ、成績表もきちんとついてくる。単位も取得でき、その気になれば一生かかって積み重ねた単位で、正式にハワイ大学の卒業資格も取れるのだ。

問題は、当時の私の英語のヒアリングが、大学の授業を理解できるほどであったかどうか。日常会話に関してはさほど問題はなかったが(電話は怖かった・・・)、大学の授業となると話は別だ。必死になって聞いたはずでも、授業の内容の半分も理解していなかったと思う。そこで隣の席にいたローカルの白人女性のクラスメートに、授業ノートを借りることにした。そして、これがきっかけで、その女性と親しく付き合うようになった。

ある日、私は夫と共にそのクラスメートのお宅の夕食に招かれた。
彼女の夫は日系人で、彼の両親も同居。ご両親と私たちは日本語も交えながら、ひとしきり話に花を咲かせた。その中で、日本はどこに住んでいたかと尋ねられ、東京だと答えたところ、彼女の夫はキチジョウジを知っていると言う。吉祥寺は私の庭のようなもの、世界は何て狭いのだろうと驚いた。

話も一段落してお腹もすいたことだし、みんなで夕食のテーブルについた。私たちがフォークとナイフに手を伸ばそうとしたその時、彼女たち夫婦は両手を前に組み、うつむいてお祈りを始めた。食事の前にお祈りする習慣はない私たちも、あわてて同じように手を組みうつむいたが、慣れないせいか何となく照れくさかった。お祈りが終わり、食事の前にまず出てきた飲み物はビールではなくミルク(暑いハワイでは、まずビールから始まるのが通常だった)。食事が終わった後にはコーヒーではなく水が出てきた。この家ではタバコも禁じられており、当時、ヘビースモーカーだった私の夫にとっては、少しつらい時間を過ごすことになった。それでも、そんな彼らの様子を見て、ずい分と規律正しい生活をしている人たちだな、と感じた。

それから数日たって、アパートのマネージャーのオナーと話をしているうちに、その日系人の話が出た。ヒロは狭い町なので、オナーは2人のことを知っていて、「あの人たちはモルモン教徒なのよ」と教えてくれた。

現在、アメリカでは11月に行われる大統領選が盛り上がっている。この選挙のカギを握る、中間所得層の票獲得をめぐって争っているのが、現大統領で民主党のオバマ氏と共和党所属のロムニー氏だ。これまでの大統領はケネディを除き、すべてプロテスタント。一方、ロムニー氏はモルモン教徒ということもあり、今まで以上に選挙の行方が話題を集めている。日本にいると、宗教のことを身近に感じる機会があまりないが、私はハワイで意外な出会いを経験したこともあり、今回の大統領選のニュースにも大いに注目している。

第26回:雨の都 ヒロ
2012年04月13日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】今年の桜は、完ぺきなタイミングで、最高に美しいお花見ができた。武蔵野市役所前の通りを、花びらが散る中、淡いピンクのトンネルを車でゆっくり走る。日本人であることの幸せを胸いっぱいに感じた。
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ヒロは雨がよく降る町だ。北東からやって来る湿った空気を含んだトレードウィンド(貿易風)が、ハワイ島の中央にそびえるマウナケアとマウナロアの2つの山にぶつかり、その手前の町ヒロに雨を降らす。ハワイの町にして、別名"雨の都"という名を持つほどで、年間平均降雨量は東京のおよそ2倍だ。

ハワイへ行く前に観光案内書でそれを知り、お土産にしてもいいと思って折りたたみ傘を10本ほど買って用意した。その昔プランテーション時代に、サトウキビ畑に働きに出かけた日系移民は、『弁当忘れても傘忘れるな』と言ったそうだ。日系人が3分の1を占めるというヒロの町、"きっと雨が降れば住民はみんな一斉に傘を広げるに違いない"と想像していた。

しかし、ヒロの町で生活を始めてみると、どこを歩き回っても傘をさしている人など見当たらない。車社会ということもあるが、たまに見かける路上の若者たちは、雨に濡れることなど何とも感じないかのように、平然と雨の中を歩いている。すぐにまた太陽が顔を出し、雨に濡れてもたちまち乾いてしまうのだ。そんなハワイで生活しているうちに、逆に、"日本ではなぜ、ほんのわずかな雨でもすぐに傘をさすのだろうか"と疑問に思うようになったくらいだ。結局お土産にと思って買った10本の折りたたみ傘は、そのままアパートの物置の奥でほこりをかぶることになった。

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〔これがハワイかと思うような景色だ。マウナケアとマウナロアの山頂の雪。青々とした木々の手前に見えるのはサトウキビ。〕




この雨は、冬になるとマウナケアとマウナロアの山頂に雪を降らす。ハワイも日本の冬の時期は気温が少し低くなるのだ。ハワイに住んでいた当時、お正月になると日本からの観光客がワイキキビーチで海に入るのを見て、"寒くないかな~"と感じたものだ。

日本のガイドブックで、ハワイでは降雨量が多いだけではなく、雪も降ることを知った私は、あろうことか日本からの引っ越し荷物の中に、スキー道具一式をしのばせた。どんな山かも知らず、ハワイでスキーをすることを夢見て・・・。マウナケアは標高4205メートル、マウナロアは4169メートル。もちろん富士山よりずっと高く、簡単に山頂へ登れるような山ではないことは、ハワイで生活を始めてから知ったこと。ここでどうしてもスキーをしたければ、"4輪駆動のジープに乗るか、ヘリコプターを1台雇うかしない"そうだ。結局スキー道具一式も、折りたたみ傘10本と共に、1度も使われることなく物置の片隅に追いやられた。

ところが、実際にスキーを滑った人に会ったのだ。その人はシマダさんの友人で、還暦をとうに過ぎている女性。若い頃スキーで日本の国体に出場した経験の持ち主だが、縁あって40代半ばでハワイの日系人に嫁ぎ、優しいご主人と共に幸せな生活を送っている。ハワイに移住した後、何としてもマウナケアで滑りたいという彼女の望みをかなえるために、ご主人が4輪駆動のジープを買ってくれたそうだ。ついに望みは実現し、マウナケアでスキーを滑ったところが、途中で転倒して骨折。回復までにかなりの時間を要したと話してくれた。大学の体育の授業でスキーを習っただけの私など、ハワイでスキーを滑りたいと思っただけでも大それたことだった・・・。

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〔左:雪に覆われたマウナケア山頂。右はその雪の中を歩いていた人影。現在はマウナケア山頂まで道路が建設され、山頂への観光ツアーバスが走るようになった〕

しかし雨が多く降るおかげで、ヒロの町は木々の緑が美しく、雨が降った後にはきれいな虹がよくかかる。時には大きな二重の虹になる時があり、それを見て私はよく、オズの魔法使いの主題歌"Over the Rainbow"を口ずさんだものだ。『Somewhere over the rainbow way up high...』。私にとってこのハワイが、まさに虹の向こうにある夢の国だった.。