銀幕の彼方に

第20回 「キング・コング」(1933年)と「アバター」(2009年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)
映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって56歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。

■第20回 映像テクノロジーの進化は何をもたらすのか?/「キング・コング」(1933年 アメリカ)と「アバター」(2009年 アメリカ)

今日は、旭川市にある某シネ・コンのメンズ・デー。降りしきる雪の中を1時間近くかけてやってきた。駐車場は除雪がまだ手付かずで、運転席から足を降ろすと膝下近くまで埋まってしまったが、この時期の北海道では当たり前のことで、そんなことは誰も苦にせずに行動する。とはいっても、苦労して観に来たのに期待した結果が得られなかったときの落胆は雪のない時期より大きいのは確かだ。今日は果たしてどうであろうか。

通常のメンズ・デーは男性が1000円で映画鑑賞をすることができる。しかし今日はジェームス・キャメロン監督12年ぶりの新作「アバター」の3D版を鑑賞しようと決めていたので、それにプラス300円が必要となる。1300円で入場券を購入し入場口まで進むと入場券と交換に係員の女性が3D用のメガネを渡してくれた。がっちりとした固いゴムのようなフレームで作られており、レンズには薄く色が付いている。普通のメガネをかけていてもその上に装着できる。重さは軽いと言って良いのか、普通のメガネよりはわずかに重いような気がするが鑑賞にはほとんど差しさわりの無い程度だ。

場内の照明が落ち、予告編が始まり何本か終了した後でスクリーンに「メガネをかけてください」と指示が出る。その後の予告編はディズニーのアニメーション映画の3D版だった。恐らく3Dの感覚に慣れさせる意味合いもあるのだろう。
ファンファーレと共におなじみの21世紀フォックスのロゴがスクリーンいっぱいに立ち上がるが、すでにここから立体映像だ。

そして本編が始まったが...。

小学生の頃、NHK教育テレビで不定期に「劇映画」という番組があった(と記憶している)。文字通り映画作品をテレビで放映していたのだが、ほぼ半世紀も前の時代においては、推察だが、恐らくソフト数が足りなかったか、あるいは著作権の問題で放映できない作品が多かったのか、同じ作品を何度も見たような覚えがある。
SFX映画の原点といわれる1933年版「キング・コング」もその中の1本だった。冬休みのたびに見た記憶がある。ただ不思議に見飽きるということがなかった。最後に見てから40年以上経っているわけだがいくつかの印象的なシーンは今でも目に焼き付いている。

恐竜プテラノドンとの格闘シーン、ニューヨークの劇場でコングが見世物となっていたときに、新聞記者が次々と焚いたカメラのフラッシュに驚き、咆哮を上げて渾身の力を込め自分を縛り上げていた鎖を引きちぎるシーン、さらに、美女を小脇に抱えエンパイアステートビルを登っていく、あの、あまりにも有名なシーンなどなど。中でもコングに機銃掃射を浴びせる戦闘機の主翼の羽根が複葉(2枚)であったことがとても珍しくて目を凝らしていたのを今でも覚えている。

今回、1933年版「キング・コング」のコラムを書くために資料を調べていたところ、今まで全く知らなかった事実を一つ確認できた。撮影にあたり人間が着ぐるみを着用しコングを演じたのではなく、身長わずか46センチメートルの精巧なミニチュアを使い、「ストップモーション・アニメーション手法(ほんの少しずつ人形を動かしながら1コマずつ撮影しそれをつなぎ合わせる手法。ノートの片隅に少しずつずらして描いた人間をパラパラと素早くめくると動いているように見えるあれである)」で全ての登場シーンを撮影したというのだ。

ハリウッド初のSFXアーティスト、ウィリス・H・オブライエンの気の遠くなるような根気と努力により、ミニチュアのコングに見事に生命が吹き込まれた。今でもコングの表情や動きのリアリティーには感嘆してしまう。当時の彼の才能とパワーには惜しみない賛辞を贈るしかない。

その「キング・コング」から60年、1990年代になるとCGによる恐竜映画「ジュラシックパーク」が公開された。まさに自分たちの目前で生きているとしか思えない恐竜たちの動きと迫力に、世界中の観客は度肝を抜かれたものだ。ハリウッドの中で連綿として受け継がれてきた特殊撮影技術の革命的向上であり、それはまた全く新しい映像時代の幕開けでもあった。

'97年に公開されたジェームス・キャメロン監督の「タイタニック」でもCG技術が巧みに活かされており、作品の内容とも相俟ってアカデミー賞の各部門賞総なめにする。だがこの時点で、彼が次回作公開までに12年の歳月を要し(ドキュメンタリー作品等を除く)、しかもそれが3Dであることなどいったい誰が想像できただろう。

「アバター」に話を戻そう。この映画の印象をひと言で言えば「すべてが整っている」。ありえない創造物の世界と計算されつくした裏づけ。それらが立体画像を通じて私たちの目前に差し出される。鑑賞している私たちが3D効果によって浮遊させられた位置から見える画面の奥行き。谷底の高さにヒヤッとし、こちらに飛んでくる弾丸の薬莢を思わずよけてしまう。ストーリーの運びもテンポよく、主人公の愛と苦悩、人間の欲望の愚かさ、そして本当に大切なこととは何かを、私たちに問いかけてくる。興行収入も「タイタニック」の記録を抜いて歴代第1位になったようである。

ではこれからの映画作りの主流が3Dになるかといえば、そう単純に事は運ばないだろう。あくまで映画表現の一手段と捉えるのが順当ではないだろうか。アクション系やファンタジー系などのジャンルにおいては有効な表現手段になるのは確実である。バーチャルリアリティを限りなくリアルに近づけるための技術革新と努力は世界中のどこかで今も続けられているはずだし、それはそれで期待していい。

ただ、ここで今一度考えなくてはいけないことがある。「私たちはなぜ映画館に足を運ぶのだろうか」という素朴な問いへの答えについてだ。

私たちはスクリーンに映し出された1秒間24コマの動く画像と音、音楽を聴きながら様々なことを想像する。シーンに応じて、絶え間なく、いくつもの感情が生まれては消える。この心地よさこそ、劇場での映画鑑賞の本質だと私は考えている。映像技術が進化し、過剰なまでに至れり尽くせりのワザで製作者の計算通りに視覚と聴覚を刺激されるだけの作品で、本質的な感動を味わえるのだろうか・・・。  

ここである言葉を思い出した。テレビの黎明期にジャーナリストの大宅壮一氏が唱えた「一億総白痴化」という言葉である。テレビというメディアは非常に低俗でテレビばかり見ていると人間の思考力や想像力を低下させてしまう、というような意味だ。だが、テレビ放送が始まって半世紀以上が経つが、どうやら日本は存続し、1億人が「白痴化」した気配はない(読書量の低下や家族間の会話の減少を生み出した原因の一つにはなっているかもしれないが)。人間の脳の力はまだまだ未解明な部分がほとんどだそうである。この豆腐のように柔らかい器官はなかなかしたたかなようだ。私の心配も杞憂に終わるのかもしれない。

キング・コングが日本映画に登場しているのをご存知だろうか。1962年、東宝創立30周年記念作品として、日本を代表する怪獣「ゴジラ」と戦わせた「キングコング対ゴジラ」と、その流れで製作された「キングコングの逆襲」である。前作は「キング・コング」以来不遇を囲っていたウィリス・オブライエンの企画書「キング・コング対ガルガンチュア」が、流れ流れて日本にたどり着き東宝が権利を購入したのだという。私は残念ながらスクリーンで見ていないが、小学生の頃は東宝特撮怪獣映画を兄弟3人でよく観に行ったものである。

今から考えれば当時の特撮技術は手作りの苦労が画面を通じて滲み出てくるような、お粗末な代物だったはずである。しかし、撮影所に設置したプールと巨大な板に書割の灰色空の下、海に見立てた水がゆっくりと盛り上がり白い波が立ち、やがて着ぐるみのゴジラがゆっくりと現われ大きく咆えた瞬間の興奮を、私は未だに忘れることができない。

第19回 「サンセット大通り」(1950年)

Text by 村岡宏一(koichi Muraoka)
映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって56歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。


■第19回 シネマに魅せられし魂は永遠に輝く/「サンセット大通り」
    (1950年)アメリカ

売れない脚本家ジョー・ギリス(ウィリアム・ホールデン)は自家用車のローンを滞納してしまう。その支払いを迫るクレジット会社の追跡を逃れるうちに、サンセット大通りに聳え立つ、寂れた豪邸に迷い込む。そこはかつてのサイレント時代の大物女優ノーマ・デズモンド(グロリア・スワンソン)の自宅だった。ノーマは銀幕への復帰を夢見て、自分をヒロインにした脚本を執筆しながら執事のマックス(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)と暮らしている。
ノーマは彼が脚本家とわかると自分の脚本の手直しを依頼する。逃げ場のないジョーは衣食住を確保できるとあってこの仕事を引き受け住み込むことになるが、プライベートの時間も徐々に束縛されるようになり息苦しさを覚え始める。
ジョーはまるで情夫のような暮らしに辟易するが、そんな中で唯一の救いは同じ脚本家を夢見るベティ・シェーファー(ナンシー・オルソン)との密かな逢瀬だった。やがて二人の間に愛が芽生えてくる。しかし、ノーマもまたジョーを愛していたのだ。そしてその年の大晦日にある事件が起きる...。

本作は第23回アカデミー賞で12部門(作品、主演男優、主演女優、助演男優、助演女優、監督、脚本、撮影(白黒)、音楽、美術監督、美術装置、編集)にノミネートされるが、受賞は4部門(括弧内太字)にとどまった。

この年はジョセフ・L・マンキウィッツ監督、ベティ・デイヴィス主演によるバックステージものの最高傑作との呼び声も高い「イヴの総て」が主要部門をほぼ独占した。しかし、脚本賞受賞の事実が示すようにビリー・ワイルダー監督の執筆による脚本は素晴らしく、的を得た配役とストーリー展開の妙は我々の眼を最後までスクリーンに釘付けにしてしまう。アカデミー賞受賞数の寡少により作品の評価が減ぜられるものでは決してない。1989年創立のアメリカ国立フィルム登録簿に登録された最初の映画の中の1本であることも、その事実を裏付けるものである。

本作品を通じてワイルダー監督は、映画の持つ魅力や妖しさ、酷薄さ、そして夢、希望、金、欲を飲み込み、攪拌して、そのエキスを抽出するプロセスに関わるすべての人々にオマージュを捧げているかのようだと、私は感じている。なぜか。

次のような場面がある。ノーマが友人3人とブリッジに興じているのだが、その3人とはサイレント期の実際の大物俳優で、アンナ・Q・ニルソン、H・B・ワーナー、そしてバスター・キートンである。特にキートンは当時チャールズ・チャップリンやハロルド・ロイドと共に「世界三大喜劇王」の一人と称された稀代の役者だ。本作の中で「パス...パス」と言っている人物である。命がけのギャグを無表情かつスピーディーにこなして、往時は絶大な人気を博していた。日本の喜劇界の第一人者だった故益田喜頓(ますだ きーとん:北海道函館市生まれ 1993年没)の名前の由来が彼から来ているのはあまりに有名である。
ジョーはそのような彼らを「蝋人形」呼ばわりするのだが、"過去の人"となった彼らの存在を認めてくれるのはもはや同じ境遇の仲間しかおらず、そのことがノーマの実生活における孤独をさらに際立たせているのだ。短いが印象的なシーンで、本人と配役とがほとんど重なって見えるため、観る側はフィクションと現実の垣根が曖昧になり、不思議な緊張感をもたらしている。

ストーリーと現実が微妙に交錯しているのはそのシーンだけにとどまらない。映画監督のセシル・B・デミルが本人役で出演していて、本作中ではノーマとの関わり合いを避けようとしているという設定だ。しかし、実際にはサイレント時代にノーマ役のグロリア・スワンソン(ノーマ役)が主演する映画を何本も撮っている。
また、執事役のエリッヒ・フォン・シュトロハイムは、1920年代の名監督だ。ある場面でノーマのホームシアターで上映される「Queen Kelly」は、彼自身の監督作品なのだ。同作で彼は撮影途中にグロリア・スワンソンとトラブルを起こし、結局撮影中止にまで追い込まれ、彼の最後の作品となったといういわくつきの映画なのである。

スワンソン自身もこの時期は鳴かず飛ばずであった。とはいえサイレント時代にはあまりにも大物女優だったため、ワイルダー監督は本作への出演を引き受けてもらえないだろうと、ダメもとでオファーしたらしい。しかし、そのオファーを受けた彼女の仕事ぶりは圧倒的で、時代がかった物言いや立ち居振る舞いの尊大さからは、"人気女優であり続けることへの執念"が感じ取れる。鬼気迫るラスト・シーンは、映画史の伝説となったといっても過言ではない。

そんな女優、グロリア・スワンソンと、本作で演じたノーマ・デズモンドとの決定的な違いはそこにある。ノーマはサイレント時代のフィルムに浮かび上がる、若く美しい自分自身に固執し、その成功体験を捨てさることができなかった。観客の多くは彼女からとっくに背を向けているにもかかわらず、自分は永遠のスターと思い込んでいたことが、悲劇に拍車をかけることになる・・・・・・。
しかし現実のスワンソンは、演技者として確固たる自信を持っていた。年齢や容姿、体力の衰えなど関係ない――そう信じたからこそ、この作品への出演をOKしたのだ。燃え尽きぬ役者魂と共に、したたかな計算もあったに違いない。

スワンソン最後の出演映画となったのは「エアポート'75」(1974)である。私が彼女を実際のスクリーンで観たのはこの映画が最初で最後。77歳のグロリア・スワンソンが本人役で出演している。
映画の中でマネジャー役の女性に向かってこんなセリフを口にする。


  「朝はいつも美しいものよ それがわかるには、あなたには10年早いわね
  (Every morning is beautiful, you're just too young to know!」)


大女優、グロリア・スワンソンの面目躍如である。
1983年、老衰にて没する。享年86歳であった。

第18回 「男と女」(1966年)


Text by 村岡宏一(koichi Muraoka)
映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって55歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。



【作品解説】「男と女」(1966年)フランス―――当時まだ無名だった映画監督のクロード・ルルーシュと作曲家のフランシス・レイの名前を一躍世界に知らしめた作品です。第39回アカデミー賞外国語映画賞、脚本賞を獲得し、カンヌ映画祭でもグランプリ(現在のパルム・ドール)を獲得しました。
全編を通してセピア調のカラー映像とモノクローム映像が巧みに使い分けられており、的確なカメラワークで人間心理の多面性をあぶり出しています。
出演者の抑えた演技はとても自然でロマンチックですが、感傷に流されているということはありません。二人の現実の苦さと切なさの巧みな表現の中に心の揺れを感じつつ、私たちはゆっくりと静かに作品の世界へ引き込まれていきます。公開から40数年という時の隔たりを感じること無く、時代を超えて今の私たちの心に届く名作です。
この映画を語るとき、映像と音楽の絶妙なマッチングについて触れないわけにはいきません。映画を観たことがない方でも、あの有名な「♪ダバダバダ、ダバダバダ...♪」というメロディーはご存知かと思います。乾いた、そして少しけだるいスキャットがこの映画の印象をより深いものにしていることは確かです。
実はこの有名なテーマ曲の他にも、劇中には美しい曲がいくつも流れるのでぜひとも耳を傾けて下さい。特に、映画のラスト近く、ここは男性の視聴者にとってはかなり「イタイ」場面なのですが、二人が初めて愛を交わした後に流れる曲、「plus fort que nous」(邦題「あらがえないもの」)の切なさは胸を打ちます。

この作品以降、ルルーシュ&レイのコンビによる新作が次々に公開されました。「パリのめぐり逢い(1967)」、「白い恋人たち/グルノーブルの13日(1968)」、「流れ者(1970)」、「恋人たちのメロディー(1971)」、「愛と哀しみのボレロ(1981)(音楽担当はミシェル・ルグランも含む)」など、映画史に残るビッグタイトルが目白押しです。私たちの年代にとってはこのコンビによる作品群が一つのカテゴリーを形成していると言っても過言ではありません。
ある映画を観ると、心の中にそれにまつわる思い出という「部屋」が一つ増えます。そしてこれから新たに鑑賞する人たちにも次々とできていくことになるでしょう。映画音楽はさしずめ耳を通じて届けられる部屋の鍵ということになるでしょうか。

物語は、妻に自殺されたレーサー(ジャン=ルイ・トランティニアン)とスタントマン(ピエール・バルー)だった夫を撮影現場の事故により失ってしまった女性(アヌーク・エーメ)が、それぞれの子供を通わせる寄宿学校で知り合うところから始まります。二人は互いの境遇を理解し、思いは徐々に深くなっていくのですが...



■第18回:アート―-永久に語りかけるもの 

ん? 何か臭う、焦げ臭い...、あ!しまった! と思って煙が立ち込めている台所に駆け込んでみると、ガスレンジにかけた鍋の中には、無残に焼け焦げたごちそうがこびりついている。肉じゃがになるはずだったのに。慌てて水を入れて、ひとしきり悔しがった後、うなだれた。(あぁ...これで今晩のメニューもおとといの夕食の再現だ...)。レトルトカレーと、お湯を注ぐだけでOKのコーンクリームスープ。手作り料理で心まで温まろうと考えていたときに、急にインスタントに変わってしまった無情感。食事をするというより餌を食べているような気になるのは私だけだろうか。

私の場合、こうなる原因ははっきりしていて、本かテレビかDVDだ。最近は妄想からうたた寝という困った原因も一つ加わったのだが、要するについでに時間つぶしでやっていたことのほうに、頭が勝手に優先順位をシフトさせてしまうのだ。並行して複数のタスクを処理するということが、段々と厄介になってきた。

ただ毎回そうなるわけでもない。「ついでのこと」が面白くなければ、周りはしっかり見渡せる。意識が覚醒しているからだ。つまり、私の意識は面白いと感じた何かに引き込まれた瞬間から現実の世界と切り離され、時間と空間を軽々と飛び超えていく。一瞬にして想像の世界の住人に変身してしまう。楽しみにしていた肉じゃがも黒こげになる。

私たちが生きているのは現実の世界だ。人、物、カネ、時間が入り乱れる戦場で生きながらえるためには、知識を蓄え、法律や経済の法則でがんじがらめになりながらも働き、結果を出し、自分の糧を得なくてはならない。決して避けることのできない他人との駆け引き、交渉、競い合い。押して引いて、なだめてすかして渡り合い、勝ったり負けたり...。
現実の世界では、それを毎日繰り返しているのだ。もしもそれが全てであれば、人間が齢を重ねるということは単にストレスを蓄え、疲弊するだけである。とても耐えられるものではない。だから私たちは想像の世界に飛ぶ。現実を一時的にでも強制的に切り離し、かろうじて精神のバランスを保っている。

想像力こそが人を生かしているのだ。

人間が地球上に登場して以来、想像力が、文化・文明を発展させてきたことは言うまでもない。素晴らしい芸術作品(アート)はその好例である。アートは人々に感動を与え、生きることの素晴らしさを直感的に実感させてくれる。
人類は「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」とも呼ばれる。「日々の労苦は、想像力を発揮して創造的活動を行うのに必要な糧を得るためにある、と思って耐えたい」、と以前どなたかがおっしゃっていたが、卓見である。あらゆる芸術(アート)価値は、創造者と鑑賞する側の作品を通した魂の共鳴によって増幅される。鑑賞する側の作品への思いやアプローチは千差万別でも、優れたアートは決して裏切ることなく答えを返してくれる。そしてそれが再び私たちの魂を揺さぶるのだ。肉じゃが(必要な糧)も、優れたアートを目の前にしては焦げついて然り、である(言い訳か...)。

映画のオープニング。主人公の女、アンヌ(アヌーク・エーメ)が娘に童話の「赤頭巾ちゃん」を語り聞かせている。アンヌは声色や動作に工夫を凝らして一生懸命伝えようとするのだが、うまく伝わらない。娘はそんな母親の熱演を無視し、「『青ひげ』のほうをお話しして」とせがむ。アンヌは再び「昔々...」と話し始める。カメラが引いてテーマ音楽が流れ、タイトルロールが始まった。

すでに私はレイ=ルルーシュが仕掛けた異世界に引きずり込まれている。

主人公はハンサムなレーサーと美人の未亡人、会話は洒落ていて、しぐさはスマート。"洗練"とはこういうことを言うのだろう。

難を言えば現実味が希薄な点だろうか。いや、だからこそこの映画は大人のメルヘン(童話)として、永遠に語り続けられることになるのだ。

第17回 「エクソシスト/ディレクターズ・カット版」(2000年)

Text by 村岡宏一(koichi Muraoka)
映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって55歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。


【作品解説】「エクソシスト/ディレクターズ・カット版」(2000年)――ウィリアム・フリードキン監督の「エクソシスト」シリーズ1作目は1974年に公開され、悪魔祓いを描いた映画として当時一大センセーションを巻き起こしました。今回のディレクターズ・カット版はそれに15分の未公開シーンを加えて再編集されたものです。 モダンホラーの魁ともいえるシリーズ第1作は、それまでのいわゆる恐怖(ホラー)映画のイメージを根底から覆し、鑑賞した人々に経験したことのない新たな恐怖感を抱かせることとなりました。連日大勢の観客が映画館に押し寄せたわけですが、「怖いもの見たさ」の需要は時代、性別、年齢を超えて永遠に不滅のようです。 「エクソシスト」以降も数多くのホラー映画が製作されているわけですが、この作品を凌ぐといえるものは数えるほどしかないと思われます。 機会があれば是非とも映画館のスクリーンで見ていただきたい作品です。そのときはこの映画から発せられるあらゆるサウンドと音楽にも耳を傾けてみてください。恐怖感が何倍にもなって跳ね返ってくるのがお分かりいただけることと思います。 シリーズ1作目は1973年度アカデミー賞の脚色賞と音響賞を受賞し、その他主要8部門にノミネートされました。 原作はウィリアム・ピーター・ブラッティ著「The Exorcist」ですが、この小説は1940年代に何か(悪魔?) に憑依された子供を救うために実際に行われた悪魔祓いの記録を元に執筆されたとのことです。


第17回:恐怖シーンに身震いしつつ、映画の完成度に膝を打つ

この映画で悪魔に憑依されるという難しい役を当時14歳に過ぎなかったリンダ・ブレアが演じきったことは賞賛に値する。
リーガン(リンダ・ブレア)は映画の冒頭に登場してからすぐ、私たちにかすかな、そして不吉な予兆を感じさせる。その後徐々に悪魔に肉体を占有されていく。そのプロセスで見せる圧倒的な演技と特殊撮影に、私たちの目は釘付けになる。

一歩間違えれば失笑を買うようなエキセントリックなシーンがいくつもあるのだが、彼女に比較して他の演技者はドキュメンタリー作品かと思わせるほどの抑えた演技を披露するため、あらゆる状況が逆にリアリティーを持って私たちに迫ってくるのだ。リンダ・ブレアが当時十代にしてアカデミー賞助演女優賞にノミネートされたのもうなずける話である。
当時のSFXの技術は今日とは比べようもなく貧弱であったはずなのに、今鑑賞しても引き込まれる。
画面にスキがないのだ。
それは、原作、脚本のブラッティーとフリードキン監督の力に負う所が大きいと思われる。

彼女の周りで頻発する怪奇現象を究明するために、脳内に原因があるとの推測を基に、当時最先端の脳医学、精神神経学者たちがプライドをかけて、少女を検査漬けにするシーンがある。これは見ていて痛々しい。医者の傲慢さと自分たちにとって都合のよい解釈をまくし立てる態度に腹が立ってくる。(撮影には実際の医療設備と医療スタッフを使ったということだ) 結局原因を特定できずに、最後には彼らの側(科学の側)からリーガンと家族に対して悪魔祓いの話をもちかけることになる。とはいえ、真の意味で悪魔祓いを認めているわけではない。「患者が悪魔祓いをしてもらったということで安心し精神的疾患が治ることがある」という、あくまで医療の見地からの対症療法として提案したのだ。
皮肉の極みとも思えるが、要するにリーガンたちは、現代科学から匙を投げられた。

女優でもある母親クリス(エレン・バーンスティン)の絶望と不安は頂点に達し、カラス神父(ジェイソン・ミラー)に助けを求める。ほんとうに悪魔がとりついたと判断したカラスは教会に悪魔祓いを申請する。悪魔祓いの経験者として教会から選ばれた老神父、メリン(マックス・フォン・シドー)は、ある宿命を感じつつ少女の家に到着する。科学の世紀、しかも文明の頂点を極めたアメリカ都市部の只中で、二人の神父による悪魔祓いがついに始まる...。

冒頭の紹介文の中で述べたように、この映画はアメリカで起きた実話に基づいている。日本でも恐山のイタコなどに代表されるシャーマニズム(シャマンを媒介とした霊的存在との交渉を中心とする宗教様式の考え方―『広辞苑』第五版より)が古くから存在している。では、現代日本で今、最も深く"何か"にとり憑かれている人たちといえば......。

私の目にはこう映る。それは、衆議院議員立候補予定者たちではなかろうか――。

文字通り何かに憑かれたようにあいさつ回りの日々を送っている候補者たち。走り、叫び、握手を繰り返し、支持を訴えている。候補者を突き動かすのは、国民の幸せを願う大志か。それが掌中に納まるであろう権力やカネ、私利私欲であれば、 彼らに"悪魔祓い"を敢行すべきだ。冷静な一票でそれができるのは、私たち国民である。この夏、私はマニフェストとやらにもきちんと目を通し、行間に埋もれている真実とウソを掘り出ひてやろうと考えている。

悪魔祓いが終わり、クリスとリーガンが転居先のロサンゼルスに発った直後、舞台となった家をキンダーマン警部(リー・J・コッブ)が訪れる。警部の何気ないが暖かく人間らしい言葉の一つ一つを、リーガン家に起きた壮絶な出来事と対比しながら味わうと心が和む。張り詰めたものをフッと緩めてくれる存在を好演するリー・J・コッブも、この映画を単なるホラー映画を超えた名作に仕立てた一人だ。
彼は私の世代が二十代の頃に観ていた懐かしの名画に名脇役としてよく出演していた。ヘンリー・フォンダ主演「十二人の怒れる男(1957)」では、最後まで少年の有罪を主張していた陪審員3番役であった。マーロン・ブランド主演「波止場(1954)」では、ボスのジョニー役が印象的だった。当時はぎらぎらした感じでどちらかというと異彩を放っていた部類であった。
残念なことに、1976年、心臓発作で亡くなってしまった。幼少の頃はヴァイオリニストとして神童と呼ばれるほどの腕前であったそうである。

アメリカ映画を見ているとつくづく感じるのだが、特にサスペンス系とホラー系作品において、作中にちりばめられる上品なユーモアとペーソスの匙加減が絶妙なのである。緊張と弛緩が無理なく配されていて、最後まで楽しめる。
恐怖だけではない。よい映画とは何なのかを知るためのエッセンスが、この映画にはたくさんある。

第16回 「オール・ザット・ジャズ」(1979年)

Text by 村岡宏一(koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって55歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。



【作品解説】「オール・ザット・ジャズ」(1979年)――ブロードウェイ・ミュージカルの振付と演出を手がけていたボブ・フォッシー監督の自伝的な作品です。第52回アカデミー賞9部門にノミネートされ4部門で受賞したほか、カンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得しています。この年のパルムドールは2作品に与えられました。もう1本は黒澤明監督の「影武者」で、直前までこの1本に決まっていたのですが、審査委員長だったアメリカの俳優カーク・ダグラスが東洋の島国の作品に最高栄誉賞を授与することに納得できずごねまくり、結局ダブル受賞になったという噂が囁かれています。
映画は監督自身を投影させた売れっ子振付師ジョー・ギデオン(ロイ・シャイダー)の毎朝のイニシエーションから始まります。ビバルディーのクラシックナンバーを流しながらシャワーを浴び目薬をさし、覚せい剤を胃袋に流し込んだ後に身支度を整えて鏡の前に立ちます。そして寝るとき以外は決して口から離すことはないタバコをくわえて鏡に映った自分に向かい「It's a show time, folks.(ショータイムだ)」とつぶやくのです。スクリーンに彼の抱く幻影が投影された後、ジョージ・ベンソンの歌う「オン・ブロードウェイ」のメロディーをBGMに、シーンは新作ミュージカルのオーディション会場に移ります。たった5名を選ぶために何百人もの人間が次々にふるい落とされていきます。志望者たちとの対話の中で、彼の資質と性格、人間性が浮き彫りになっていきます。
自らの作品に輝く天賦の才、そして分け隔てなく(手当たりしだい?)女性たちと関係を結ぶ退廃的愛憎劇。ショービジネスの光と影の狭間を漂いながら、彼の体は確実に蝕まれていきます。彼の心に浮かぶ過去の回想と幻想シーンを絡ませながら、映画はやがてファンタスティックな終焉を迎えます...。


第16回:「生の証」を芸術表現に求めて

2000年だったと記憶している。私が所属していたあるアマチュアバンドのリサイタルでのことだ。オープニングからの数曲が終わったが、聴衆の反応は今ひとつだった。空気が温まってこないそんな中でゲストがソロプレイをする曲順がやってきた。
スポットライトの当たるセンターマイクへ彼は歩みより、おもむろに最初の1音をトランペットから発したときだった。その音が会場を包み込み客席が一瞬にして静まり返った。曲はアメリカ人が最も好むと言われている「Star Dust」のバース(前歌)の冒頭の音である。しかし、アメリカ人にはウケるかもしれないがここは日本、しかもアマチュアバンドのリサイタルである。親戚や知人、職場の仲間など、客席を見渡しても失礼ながらジャズに精通していると思える人がそれほど見受けられるわけでもない。この曲を知らない人がほとんどのはずだ。

にもかかわらず、私たちは彼が演奏を始めた瞬間、彼の作り出した音の世界に引きずり込まれたのである。そしてその演奏が終わった瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。

そのときまで、私は音楽の持つ力というのを感じたことがなかったわけではない。数多くのプロの生演奏に接し、何度も心が震えたことがある。しかしこの日の感動は異質だった。シングルノート(一個の音)である。旋律とか、連続するリズム、ハーモニーではなく、ただ一個の少し長めの音だ。

音そのものにこれだけ心を揺さぶられたのはそのときが初めてだった。

私も下手の横好きでトロンボーンという金管楽器を何年も経験していたわけだが、本質的に「楽器奏者とは何を目指すべきなのか」を見せつけられてしまった。それは音それ自体が美しくなければならないということ、今出している以上のものを常に心がけなくてはいけないという、頭でわかっていたつもりの真理だった。

「オール・ザット・ジャズ」('79年)の中で、主人公のギデオンが振り付けしたダンスを、ダンサーたちがスポンサーのお偉い人たちに披露するシーンがある。陳腐な、いかにもミュージカルナンバーというメロディーだが、彼は自ら選んだダンサーに過激な振付けを施し、演じさせる。そのダンスシーンは私たちを夢幻の世界にいざない、彼の異才を深く印象付けてくれる。別れた妻に「あなたの最高傑作よ」と言わしめるほどのできであった。ただ、妻の表情は殺意が透けて見えるほどの嫉妬に満ちてはいたが...。

ミュージカル史に残るような見事なダンスパフォーマンス。それでも、彼を満足させることは決してないだろう。なぜならそれは彼の抱く理想とはまだ程遠いものだからだ。見る者の賛辞とはうらはらに、彼自身は理想に至る過程にすぎないと自らを責め、無能さを嘆き、自信を喪失しているに違いない。

何かを1つ表現すれば、理想の頂に至るどころか、克服すべき課題が堆く積み上がった新たな山に行く手を阻まれる...。しかし、真の表現者たちはその命が削られるようなゲームから降りようとしない。なぜか。次に表現すればさらに一歩理想に近づくと、彼らは確信しているからだ。だからこそ私たちは、驚きと感動に満ちた作品を、彼らから永遠に享受し続けることができる。

●私の心にまとわりつく、音楽と表現者たち

先日ロック歌手の忌野清志郎が亡くなったが、彼の声をはじめて聞いたのはデビュー間もない頃の'70年前後だったと思う。ラジオの深夜放送で音声が大きくなったり小さくなったりする韓国語放送の間を縫って聞こえてきたその声は鮮烈だった。曲は「ぼくの好きな先生」だったと記憶している。搾り出すようなあえいでいるような、突っ張った、一度聞けば忘れられない声だった。

清志郎は、歌手以外になれない、歌手をするために生まれてきたのだといっても過言ではない。我々に見せつけてくれたその生き方は、まさに表現者の名に恥じないものであった。彼の与えてくれた感動は必ず次の世代に引き継がれ、新たな"清志郎"を生むに違いない。

その頃にデビューした日本のミュージシャンを思いつくまま挙げてみよう。井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげる、オフコース、チューリップ、郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹、山口百恵、沢田研二(ソロデビュー)、アリス、しばらくして荒井(松任谷)由美、アルフィー、サザンオールスターズ、YMO、ピンクレディーなど錚々たる面々が浮かんでくる。

自分の年齢のせいもあるとは思うが、こうした名前を見ていると「時代」が見えてくる。時代の空気を身にまとっているとでもいうのだろうか。その逆も言える。彼らが時代をまとったのではなく、私たちが「彼らという時代そのもの」をまとっていたのかもしれない。

つい最近、曲も歌手も全く知らなかったが、昨年の携帯ダウンロード1位の曲をじっくり聞いた。知らなくても今のところ別に困ることもないと思った。好きな音楽を決めつけているわけではない。私の心にヒットするのは、いまだにノンジャンル、国籍も問わない。最近のお気に入りは、今所属しているバンドのコンマス(コンサート・マスター:いい音楽を作るために色々と指示を出す人のこと)が取り上げた「SAMBA DE AMORE」(作曲:Arturo Sandoval)だ。とても美しいスロー・サンバである。サンドバルのフリューゲルホン(トランペットを1回り大きくしたような形。独特のくぐもった、柔らかい音を出す)が歌いまくっていて、心に届く音とは何なのかをわからせてくれる。最近良い音を聞いていないという方は是非お試しを。「ADIEMUS」も最近よく聞いている。人間の声の持つパワー、すなわち人間そのもののパワーを再認識させてくれる1枚だと思う。

ジャズがメインで聞いているが間口は結構広いという自覚がある。これからどのような音楽、ミュージシャンに出会うのかはわからないが、耳に入ってくる音には貪欲にアプローチし、聴く側として真摯に向き合っていこうと思っている。音そのものの中に作り手のすべてが込められているのだから。

2009年6月7日、札幌の北海道厚生年金会館で「原信夫とシャープス&フラッツファイナルコンサート2008-9」がある。ゲストはこてこての大阪弁で迫ってくる"浪速のジャズピアニスト"として知られる綾戸智恵。チケットは購入済みで、今、その日をわくわくしながら待っている。

そして今回もまた、シャープス&フラッツのメンバーでもあるあの彼のトランペットから聴衆を黙らせる音が出てくることを期待している。

第15回 『ラスト・ショー』(1971年)


Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)


映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって55歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。



【作品解説】「ラスト・ショー」(1971年)――ピーター・ボグダノヴィッチ監督による'51年前後のテキサス州の田舎町を舞台としたモノクロ映画です。それこそ高校生のフットボールの結果が翌日町中の話題に上るくらいの小さい町で繰り広げられるさまざまな恋愛模様、人間模様を描いています。
スクリーンの上で躍動する若者たちが躊躇することなく、好奇心もあらわに突き進むさまを見ていると、心の奥深くに仕舞いこんでいた(なるべく触れたくない)自分の青春の証をそれと重ね合わせてしまうのは私だけでしょうか。何も無いということが唯一の財産だったあのころを特別の感慨とともに思い起こさせてくれる名作です。
原題の「The Last Picture Show」 は、若者たちの社交場でもあった映画館が取り壊されることになり、「赤い河」(1948年、ハワード・ホークス監督、ジョン・ウェイン主演)が最後の上映作品(The Last Picture Show)として劇中映画に取り上げられているのですが、両方をご覧になるとボグダノヴィッチ監督が数ある映画作品の中からなぜこれを選んだのかが良くわかります。
第44回アカデミー賞でベン・ジョンソン(役名サム)が助演男優賞、クロリス・リーチマン(役名ルース)が助演女優賞を受賞しています。


第15回:求める心と応える心、そして通い合う心

1971年、ある歌謡曲が日本国中を席巻した。当時40代半ばに差し掛かっていた俳優で歌手の鶴田浩二が歌う「傷だらけの人生」 である。曲冒頭と曲間の鶴田のモノローグ、というよりほとんどつぶやきに近いセリフが人々の心を捉えた。戦争が終わって25年が経過し、高度成長期を迎えて繁栄に浮かれている日本を憂い、嘆くセリフだ。しかし、そう感じるのは(自分が古い人間だからなのか)、と自虐的に言い放つ姿がなぜか世代を超えて大きな支持を得た。
こんな感じだ。「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」。

当時の日本はアメリカに追従する形で農業国家から工業国への急速な変化に国全体が振り回されていた。そのような変化を良しとしない世代の代表が鶴田浩二だった。戦時中特攻兵として大勢の仲間を見送り(実際は飛行機の整備兵だったらしい)、死に切れずに終戦を迎え、敵国の価値観を唯々諾々と受け入れ、日本人の自意識、美意識、倫理観が次々に切り捨てられてアメリカナイズ、つまりかぶれていく現状に対し、鶴田の世代は我々には想像もできない危機感を抱いたのだと思う。セリフもある荒廃しつつあった地方への憂いは、40年後の現在、それが現実となって我々の目の前にある。
食料自給率が40%を切り、農業の後継者が不足し、地球は温暖化の一途をたどっている......おまけにアメリカ発の金融恐慌によって、今日の日本の景況感は「過去最悪」に陥ったと、報道関係は連呼している。
この地球レベルの危機を、鶴田は草葉の陰からどう見ているのだろうか。

2番の歌詞の前には、男女のあり方に言及したこんなセリフもある。「好いた惚れたとけだものごっこがまかり通る世の中でございます。好いた惚れたは、もともと心が決めるもの...こんなことを申し上げる私もやっぱり古い人間でござんしょうかね」。
戦後、恋愛結婚が徐々に増え、見合い結婚が古いという考え方が広がってきていたさなかに、鶴田は自由恋愛至上主義の狂騒を「けだものごっこ」と吐き捨てたのである。

「ラスト・ショー」の男女関係を言い表すのに、鶴田のセリフ以上にあてはまる言葉はない。

高校生が夫ある女性と関係し、女子高生が自分に合う男を執拗に捜し、二人の男子学生はその行動に翻弄され友情が壊れそうになり、社長夫人が夫の会社の人間と関係し、娘も同じ人間と関係する。その社長夫人は昔・・・。自らを抑えることを知らないかのように、自己の欲求を満たそうとする登場人物たち。当然傷つく人間もいるが、傷が癒えればめげることなく再び立ち上がる。そのバイタリティーには頭が下がる。
正しいから勝つのではなく、勝ったから正しいという弱肉強食の国、米国においては、自分のパフォーマンスで相手を組み伏せることができなければ、それは負けを宣言するに等しい。敗者には何も与えられないことをこの国の人々は本能的に認めている。

私個人のことで恐縮だが、2月から実家に戻って父親と二人暮しをしている。父の体力が落ちて一人暮らしが無理になったためだ。そんな父も考えるほうは日常生活と意思疎通にはほとんど不便はない。現在の日付と時間の認識が多少あやふやになっているくらいだ。同じことを何度も繰り返して言うのでときどき閉口するが、過去の出来事は驚くほどはっきり覚えている。
筋力が落ちているのと手の動きが多少不自由なため家事全般をスムーズにできないので、私がすべてをこなしている。やればできるもので今ではほとんど苦にならない。慣れとはこんなものかと自分でも驚いている。
そんなある日、夕食後二人でテレビを見ているときだった。不意に父が、「母さん一人で留萌から来たんだわ」 とつぶやいた。平成7年12月に亡くなった母との馴れ初めを急に話し始めたのだ。よく聞いてみると、昭和26年(1951年)6月に、留萌(北海道留萌(るもい)市)に住んでいた父の妹の嫁ぎ先から、年頃の娘さんがいるから会ってみないかとの勧めがあり、父はそれに気軽に応じたという。当時父は34歳、母は28歳であった。

約束の日時に深川の停車場(ていしゃば:今のJR駅)に行くと、きょろきょろ不安そうに周りを見渡していた若い女性がいたので「正木(まさき:母の旧姓)さんかい?」 と父が尋ねると、母はほっとした表情で「そうです、村岡さんですね」 と言い、ぺこりと頭を下げた。

当時の父は抑留先のソビエト連邦共和国(現:ロシア共和国)から引き揚げてきて間がなかった。就職したてでもあり懐の中は寂しかったはずだ。しかし元来"いいふりこき(北海道方言:カッコウをつける人)"なため、一張羅を着込み、昼食用の金も用意して迎えに行った。

挨拶が終わり食事に誘おうとすると、母は「少し散歩しませんか、いい天気ですし」と言って石狩川の堤防に向かって歩き始めた。父は機先を制せられ少し驚いたがそれに逆らいもせず、二人並んで歩いていった。
石狩川の堤防は深川の駅から南に向かって歩くと5分ぐらい先になるだろうか、通り沿いの町並みはすっかり変わったが道筋は今も当時も同じはずだ。
堤防に着くと母は用意した新聞紙を草の上に広げ父に座るように勧めた。父と母が並んで座りしばらく川面に目をやっていたとき、母はハンドバッグの中から二つの包みを取り出すと父に一つ手渡し、「お昼にしましょう」と言った。包みの中には、母お手製のおにぎりが二つ入っていた。父はそのときつくづく感心したという。
食事の後3,4時間二人は取り留めない話をしてその日は別れた。
 
これが二人のお見合いだった。

世話人もなく豪華なホテルを使ったわけでもなく、風がそよぐ青空の下で手弁当を分け合い、言葉を交わし、はじめて出会ったその日に心を通い合わせたのだ。

数日後、父は紹介者に結婚承諾の返事をした。その後結納の儀なども格別行わず、翌年の春に父の実家で近親者と近所の親しい人たちを招待し、簡単に結婚式がとりおこなわれた。"お見合い"の日から挙式の日まで、二人は一度も顔をあわせることはなかったそうである。当然新婚旅行もなく、家庭用電化製品など国内では存在さえしていない頃で、文字通りないない尽くしの中、父が住んでいた市内の棟割長屋で新婚生活が始まることとなった。
私も産婆に取り上げられそこで生まれて小学校の低学年まで暮らしていたのでぼんやりと覚えているが、一つの部屋と炊事場、トイレは共同、おまけに日中も満足に日がささないうす暗い部屋だったような記憶がある。
今から見れば過酷としか言えない環境で二人が心に刻み込んだのは、お互いを伴侶として選んだこと、そのことこそが目の前にある事実であり、生きていくことは好いた惚れただけではどうにもならない、ということだ。そこからでも努力して必ず幸せをつかもうと、二人は自分たちに言い聞かせ、それを信じてひたすらに生きた。

私を含めた3人の子供が独立して手が離れた頃、気分的に余裕ができたのか、母は気心の知れた友人とグループを組んで国内旅行に出かけ始めた。お土産がよく私のところにも送られてきたので、それを見ながら(今回は九州か、今回は東北に行ったんだ)と、母の旅姿を想像したものだった。

それから数年後、脳梗塞が原因で母は倒れ、3年間の入院生活の後、平成7年12月、父に看取られこの世を去った。父は母が入院してから亡くなるまで運転免許を持っていなかったので、JRとバスを乗り継ぎ片道2時間かかる病院までの道のりを一日も欠かさず見舞いに通った。
父が病室に顔を出すと、毎日来ているのに母は「父さん、父さん」と声を掛け、いつも目に涙を浮かべて喜んでいたそうである。

平成14年に迎えるはずだった二人の金婚式まで後7年だった。

第14回 『ハリーとトント』(1974年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって55歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。


【作品解説】 「ハリーとトント」(1974年)――ポール・マザースキー監督によるロードムービーの傑作です。第47回アカデミー賞の主演男優賞はこの映画で主役のハリーを演じたアート・カーニーに贈られました。「トント」は映画の中でハリーが飼っていた猫の名前です。 アート・カーニーをご存知ない方もこの回にノミネートされた錚々たる俳優の名前をご覧いただければ、彼の演技力がどれほどのものかご理解いただけると思います。ダスティン・ホフマン(「レニー・ブルース」)、ジャック・ニコルソン(「チャイナタウン」)、アル・パチーノ(「ゴッドファーザーPARTⅡ」)、アルバート・フィニー(「オリエント急行殺人事件」)らを抑えて、地味な老人役(当時56歳)を演じた彼が受賞したのです。 私たちにはどのような選考過程を経て受賞者が決められるのか知る由もありませんが、オスカーがオスカーたる所以はこのあたりにあるのかもしれません。

物語はハリーが教師の仕事を定年退職したあと、愛猫トントとニューヨークで一人暮らしをしているところから始まります。ところが住んでいるアパートが取り壊され跡地が駐車場になることが決まり、立ち退きを余儀なくされます。ハリーはトントと共に長男の家に引き取られますが、やがて長男の嫁との折り合いが悪くなります。ハリーは長女の住むシカゴに立ち寄り、次男の住むロサンゼルスを目指して旅立つことを決めます。旅の途中でさまざまの人との出会いと別れがあり、やっと次男に巡り会えたのですが・・・



明日への希望がある限り

バラク・H・オバマ氏が、第44代アメリカ合衆国の大統領に就任した。20分弱に及ぶ就任演説草稿に目を通してみると、現在アメリカが抱えている問題が見事に浮き彫りとなっている。100年に一度と言われる不況による倒産、失業、貧富の格差、市場の混乱、環境破壊と地球温暖化、エネルギー問題、イラクやアフガニスタンでの戦闘状態などを取り上げ、それらの解決に向けての大まかな方向性を示している。
その背景にあるのは数多くの困難を克服した先人たちが築き上げたアメリカの歴史であり、過去から連綿と引き継がれているアメリカ国民としてのあり方である。

国内に存する多様性(our patchwork heritage)を強みとし、この日に集った国民に対し、我々は恐れではなく希望を選んだ(we have chosen hope over fear)とその決断を認識させ、立ち上がり、ほこりを掃い、アメリカ再建の仕事に取りかからねばならない(we must pick ourselves up, dust ourselves off, and begin again the work of remaking America.)と強く呼びかけている。
歴代の大統領就任時を見たとき、就任時に世情の混迷が極まっているという点において、オバマ大統領は間違いなく上位にランクされるだろう。

実はこの映画が作られた頃も世界は不況の只中にあった。73年10月には第4次中東戦争が勃発し、OPEC(石油輸出国機構)が原油価格を21%引き揚げ、74年1月にはさらに2倍に引き揚げた。いわゆる第一次オイルショックだ。石油依存度の高かった先進諸国は、瞬く間にインフレーションの荒波に飲み込まれてしまった。

アメリカはベトナム戦争の過剰な戦費の支出で国力が衰退し疲弊しきっていた。
ハリーの住んでいたニューヨーク市は、70年代、恐らく世界の主要都市としては最も悪名高き街であった。治安は最悪で強盗殺人の発生件数は世界トップクラス、今では考えられないがタイムズスクエアでは風俗店が軒を連ね、昼間から営業していた。黒人以外は昼間でも「地下鉄には乗らないように」といわれた時代だった。

時とともに彼の生まれた街、ニューヨークは変わっていった。その変化を目にしつつハリーは老いていった。彼の口ずさむ歌の数々は、第二次大戦前のブロードウェイを飾ったミュージカルナンバーだ。そのメロディーを愛猫のトントに聞かせるとき、彼の目に映る景色は彼だけのニューヨークになる...。亡くなった妻のアニーも、そんな彼に微笑みかけていたに違いない。

しかしハリーは誰よりも知っていたはずだ。自分は今、生きているという事実を。そして生きていることとは苦しみや楽しみを含むあらゆる出来事をそのまま受け止め、しっかりと前を向き、力強く歩み続けることなのだと。

90年代に入ると、ルドルフ・ジュリアーニ市長の登場により、ニューヨークは劇的に変わった。割れ窓理論という言葉をご存知だろうか。建物の窓が壊れているのを放置すると、それは悪い連中に「誰も注意を払っていない」と理解される。すると他の窓も全て壊される。窓が全て破壊されたエリアでは、それが「誰も当該地域に対して関心を払っていない」というサインとなり、犯罪が発生しやすくなる。ジュリアーニはこの理論を用いて犯罪率の減少に努め、マフィアの取り締まりを強化し、警官のモラルを向上させた。
火を噴くタクシーを全て新型車量に交換。タイムズスクエアの再開発により、ディズニー、MTVスタジオ、ABCスタジオなどが同地に移転した。ニューヨークは一躍全米で最も安全な都市と呼ばれるまでに変貌した。
ハリーはどこからか今のニューヨークを眺め、少しは胸を撫で下ろしているのだろうか。それともそんなことは関係ないよとばかりに、愛妻アニーに新しい曲を聞かせて、あの頃のように講釈しているのだろうか。

オバマ氏の大統領就任演説は、以下の言葉で結ばれている。
「我々の子孫に語り継いでもらおう。試練にさらされた時に、我々は旅を終わらせることを拒み、たじろぐことも後戻りすることもしなかったということを。我々は地平線と注がれる神の愛を見つめ、自由という偉大な贈り物を前に送り出し、それを次世代に無事に届けたのだ、ということを」

※「ハリーとトント」のDVDが2009年5月2日に発売されるそうです。

第13回 『猿の惑星』(1968年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって55歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。

     


【作品解説】 本年4月5日に83歳で亡くなった俳優チャールトン・へストン主演のSF娯楽大作です。今となっては信じ難いことなのですが、当時SF映画は映画のジャンルの中で一段低く見られており、大物俳優のヘストンがSF映画に出演すること自体が話題に上るほどでした。この映画を実際にご覧になっていなくても「タイトルだけは知っている」という方は多いのではないでしょうか。大胆な展開とユニークな内容で日本でも当時大ヒットし、この後シリーズ化され第5作まで製作されましたが、やはり、第1作が抜きん出ているように思われます。
第41回アカデミー賞では、見事な類人猿のメイクアップに対して、担当したジョン・チェンバースに名誉賞が授与されています。他に作曲賞と衣装デザイン賞にもノミネートされました。
映画は、地球へ帰還の途についている宇宙船の操縦席に座り、眼前に広がる漆黒の宇宙空間を見つめているテイラー船長(チャールトン・へストン)の独白から始まります。彼は半年前に旅立った地球へと思いを馳せます。船内の人間にとっては半年間でも、相対性理論により、地球上では700年の時が経過しているのです。
やや感傷的なモノローグの後、彼も他の乗組員と同様に人工冬眠状態に入ります。そして船内時間でさらに半年が経過したとき、宇宙船は自動操縦装置の故障により、ある惑星に不時着しました。そこで彼らが目にしたのは、馬に乗り、銃を操り、そして言葉を話す猿の群れだったのです。


国民的アイドルのコンサートと「猿の惑星」

「村岡さん、3日の夜ヒマ?」

休憩室で食事を取っていると、同僚のTさんが話しかけてきた。
私よりかなり若いバイタリティあふれる女性である。

「札幌ドームのコンサートなんだけど一人ドタキャンなのよ。
半額でいいからさ」

そのコンサートってまさか...。
Tさんは自他共に認めるあの国民的グループの熱狂的かつ筋金入りのファンなのである。私も本人から話を聞いているし、最近ちょくちょく仕事を休んでいたのも、名古屋を除く全国のドーム球場にオッカケで行っていたからだ。
念のため聞くと

「そうよ、2008年のSMAPファイナル。『FNS歌謡祭』の中継が入るかもしれない」

「アイドルのコンサートに、私の年齢で行くのも...」と、一瞬たじろぐ。

「大丈夫よ、80過ぎのおじいちゃんも来てるから...」、そうか、と妙に納得。

「たまにはこういうのもいいんじゃない?楽しいわよ」

今をときめくスーパーアイドルのコンサートとはいかなるものか、
野次馬根性が頭をもたげてきた。

「わかりました。18時半からですね、行きますよ」そう言って、チケットを預かった。


そして、コンサート当日、地下鉄さっぽろ駅から札幌ドームのある東豊線福住(ふくずみ)駅に向かった。さっぽろ駅からすでに大混雑だ。東京の朝じゃあるまいし、車内で身動きが取れないなんて普段では考えられない。福住手前の各駅で止まるごとに「すいません!降ります!(道を)空けてください!」と大声が上がり、何人かがぱらぱらと降りる。それでもほぼすし詰め状態のところに、今度はそれを上回る人間が各入口から後ろ向きで強引に乗り込む。外にはじき出されないよう両手をドアの上部に引っ掛け踏ん張っていると、その鼻先をかすめるようにしてドアが閉まる。乗り切れない人がまだずらっとホームに並んで次の電車を待っている。

終着の福住駅に着いた。電車からどっと人が吐き出され一つの方向に自然と流れていく。駅員が拡声器で、事前に帰りの切符を購入するようにと喚いている。通路の両側には「チケット買います」、もしくは「売ります」と書いた紙を持って人の流れに注視している人たち(ほとんど女性)がずらっと並んでいる。今ドームへ歩いている人たちを含め、あらゆる方向からそれぞれのアクセス手段で、定刻18:30に集結しようとしている人間たち、その数、約5万人である。そのエネルギーが会場でどう発散されるのか。徐々に気分が高揚してきた......。

今、時刻は22時30分。正直かなり疲れた。

SMAPの5人は、定刻どおりにステージに現れ、4時間ものパフォーマンスを演じきった。30近い曲数を歌い、踊り、楽器を演奏し、走り回り、その間クレーンに乗り、テレビ中継をこなし、聴衆と対話したのである。その体力と集中力には驚かされる。
彼らを引き立てるためのミュージシャン、ダンサー、音響、照明、演出、マルチスクリーンの映像など、恐らく今日では最高のステージ技術の集大成を、私たち観客が目にしたのは間違いない。しかもそれらが綿密にタイムテーブルに乗せられて、寸分違わぬタイミングで矢継ぎ早に展開されたのだ。「サプライズとイリュージョンが巧みに絡み合うミュージカルパフォーマンス」と言えるかもしれない。そしてそのパフォーマンスを、聴衆がSMAPと一体になることでさらに盛り上げていく。ペンライトは必需品のようだ。最近の製品はライトの部分が大きくなっており、色が青とピンクと交互に変化する。数万個のそれがドーム全体の闇の中で音楽に合わせ揺れる様子は圧巻である。

コンサートステージへの印象というものは、人によってまちまちであろう。私にとってこの4時間は、現在の大型ステージの演出とその効果がどのようなものであるかを知るという点で、大いに参考になった。ステージ上で繰り広げられるのは、聴衆を引きつけ続けるための刺激とサプライズの連続であり、5人それぞれの人となりと個性にそれらがちりばめられていた。

技術はパフォーマンスをバックアップするスパイス役である――。
スパイスは決して前に出すぎてはいけない――。

今よりスパイス(技術)の種類も限られ、品質も劣っていた40年前に作られたのが本作「猿の惑星」である。コンピューターによる映像処理技術はまだまだ拙劣で、パソコンなども当然なかった。予算も少なく、当初「猿の文明は人間より発達していた」という設定だったが、未来都市を組み上げる建設費がなく、時代感覚が希薄で造作しやすい設定にしたそうである。

それが理由でこの映画の面白さや価値が減ぜられたかといえば、否だ。原作の面白さを十分に汲み取った脚本と俳優陣の確かな演技力、それにスタッフ陣の創意と工夫(特にメイク・アップ)が結実し、見事な異世界空間とドラマを創り上げた。

適度な間とテンポと静寂があり、視聴者は想像を働かせながら見ることができる。テンポ感は近頃の映画に比べればかなりゆっくりだが、映画の本質とは関係がないから今の私たちでも受け止められる。きちんと人間の表現ができていて、ストーリーにリアリティーが含まれているから、テンポなど関係ない。自ずと後世に残っていくであろう、名作であることに間違いはない。
映画と生きる人間とは、かくも滑稽である。ファンならずとも垂涎のチケットを手にし、国民的アイドルのコンサートに身を置いても、こんなことを考えずにはいられないのだ。


●第19回よみうりほっと茶論(サロン)

11月17日札幌市の読売北海道ビルで「映画が面白い」をテーマに、「第19回よみうりほっと茶論(サロン)」が開かれた。
札幌市の市民出資型ミニシアター、「シアターキノ」代表、中島洋さん、苫小牧市の「シネマトーラス」代表、堀岡勇さんが今の日本映画への思いを語るとともに、コミュニティーシネマ活動の現状を紹介した。
12月3日付の「読売新聞北海道特集」に記事が組まれ、その中に、シアターキノが誕生して16年の間に上映された作品の中から、観客が選んだ「ベスト16」が載っていたので紹介しよう。紛れもなく良質で、作り手の思いがあふれている映画ばかりである。機会があれば是非ご覧いただきたい。
中島さんは「自分と異なる価値観を味わったほうが楽しい」とおっしゃり、堀岡さんが大切にしているのは「見た人の満足度」だと言う。私も同感である。ちなみに私はこのなかで6本鑑賞している。その感想などはまた別の機会に...。

1. 誰も知らない (2004年 日本)
2. かもめ食堂 (2006年 日本)
3. ゆれる (2006年 日本)
4. アメリ (2001年 フランス)
5. フラガール (2006年 日本)
6. 善き人のためのソナタ (2006年 ドイツ)
7. キサラギ (2007年 日本)
8. バッファロー'66 (1998年 米国)
9. 花様年華 (2000年 香港)
10. 麦の穂をゆらす風 (2006年 アイルランド・英国ほか)
11. 八月のクリスマス (1998年 韓国)
12. 輝ける青春 (2003年 イタリア)
13. トーク・トゥ・ハー (2002年 スペイン)
14. ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ (1999年 ドイツ・米国・フランス・キューバ)
15. ワンダフルライフ (1999年 日本)
16. オール・アバウト・マイ・マザー (1999年 スペイン)

第12回 『復讐するは我にあり』(1979年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって54歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。



【作品解説】 本年10月5日に71歳で急逝した俳優緒形拳主演の実録犯罪映画です。原作者の佐木隆三は、実際の西口彰事件をもとにした同名のこの小説で第74回直木賞を受賞しています。同年の第3回日本アカデミー賞作品賞、助演女優賞、監督賞、脚本賞、撮影賞を受賞しています。ちなみに同年の外国映画賞はロバート・デ・ニーロ主演のベトナム戦争を主題にした「ディア・ハンター」でした。

犯人の榎津巌(緒形拳)は大正14年(1925年)大阪で生まれ、3歳頃両親の故郷である長崎県五島列島に帰ります。五島列島には隠れキリシタンの伝統があり、両親(父親役:三國連太郎、母親役:ミヤコ蝶々)も本人も洗礼を受けています。その後別府市に転居し父は旅館経営を始め、巌はミッションスクールに入学させられますが、規律の厳しさに耐えられず中途退学してしまい、その後は絵に描いたような転落の人生を歩むことになります。
太平洋戦争中の16歳のときに詐欺罪により福岡少年審判所で保護処分になった後は岩国少年刑務所、そして昭和19年(1944年)には横浜刑務所に移管され、昭和20年(1945年)8月に仮出所となりますが、その後は様々な詐欺罪で刑務所への出たり入ったりを繰り返します。その間には結婚も (榎津加津子役:倍賞美津子)しています。
そしてついに現金強奪を目的に昭和38年(1963年)から昭和39年(1964年)にかけて5人の命を奪い、他に詐欺10件、窃盗2件をはたらき九州から北海道まで日本中を逃げ回りました。延べ12万人の警察官が動員されましたが、その捜査の網をかいくぐり80日近くも逃走したのです。結局11歳の少女の目撃証言がきっかけとなって昭和39年1月に熊本で逮捕起訴されました。同年12月に福岡地裁小倉支部は死刑の判決を言い渡します。その後控訴審が何度か開かれますが、昭和41年(1966年)8月15日になぜか上告を取り下げ死刑が確定し、昭和45年(1970年)12月11日福岡刑務所拘置所で死刑が執行されました。享年44歳でした。


緒形拳に哀悼を捧ぐ

東京オリンピックが開催された翌年の昭和40年(1965年)1月3日、NHK大河ドラマの3作目がスタートした。「太閤記」である。日曜日の夜8時からの放映もこのときからだった。主役の豊臣秀吉に抜擢されたのが緒形拳、デビューしたての新人であった。当時のテレビ画面はもちろんモノクロで、チャンネル、ボリューム、画面調整のつまみはすべて手回しだった。14インチブラウン管の粗い走査線に浮かび上がった緒形拳の顔はエラが張っていて、目はぎょろぎょろと動き、眉の間に大きなほくろがあり、肉の薄い大きな唇からは良く通る声が発されていた。時代の希望と夢を全身で表現していたのではなかったかと思う。その新人を支える主だったキャストとして、ねね役は藤村志保、信長役は高橋幸治、森欄丸は片岡孝夫(現仁左衛門)、明智光秀は佐藤慶、石田光成は石坂浩二、お市の方は岸恵子、茶々が三田佳子と今考えれば大変なキャスティングだった。赤木春恵、神山繁、フランキー堺、浜木綿子などが脇役なのである。私たちの年代としては豪華絢爛としか言いようがない。テレビの本放送が始まってまだ10年前後の頃である。
そしてまだまだ歴史の何たるかもわからない子供が親と一緒に必死に見ていた。その年の4月にやっと小学校6年生に進級する私である。石炭ストーブの横に座り暖を取りながら見ている。そばには妹と弟も座って見ているが眠そうである。母親がストーブの上で干し芋を焼いている。少し焦げて芳ばしい香りがしてくる。両面を焼いて皿にまとめてくれた。当時の石炭ストーブは暖房器具であり、かまどであり、オーブンでもあった。父はほとんど酒が飲めないので、私と一緒に芋をつまみながらあれこれ歴史の知識を披露してくれる。わからないなりにも聞いていたような気がする。
外は寒い。北海道は一月から二月にかけて寒さのピークが来る。当時は夜なら-15度から-20度くらいはあったと思う。当時の我が家のつくりは決して良いとは言えなかった。壁に今のように断熱材が入っているわけでもなく、外が寒ければその通りに家の中も寒くなり、朝-20度以下になると寝ている間に吐いていた息の水分で布団の口のあたる部分が凍っていることもあった。へたをすると醤油や油の瓶が凍って割れるのである。昔液体系の入れ物はほぼガラス瓶だったためよく凍って割れた記憶がある。
加えて狭く、衛生環境も芳しくはなかった。トイレは水洗ではなく、飲料水はポンプで、流し台の隣に据え付けてあった。地下から汲み上げた水を漉し桶に通してから別の桶にためて飲料水として使用したのである。当時住んでいた地域の水は鉄分が多く、漉し桶の砂がすぐに赤くなり父とよく交換したのを覚えている。
毎朝顔を洗うのは湯たんぽのお湯と決まっていた。洗面台と流し台は当然一緒で、一晩経ってぬるくなったのを洗面器に開けて使うのである。目の前のガラス窓には、しばれのアート、氷紋が描かれていたのを覚えている。ガラスに付着した空気中の水分が凍りつくのだが、温度やさまざまな条件でえもいわれぬ文様をガラスに描くのである。
水道の恩恵にあずかったのは昭和42年(1967年)中学2年に引っ越した家が初めてであった。このときから2、3年の間に、冷蔵庫、洗濯機、ガスレンジ、ステレオが我が家にやってきてそこそこ文化的になったのである。そしてこのころから徐々に暖房も含め、エネルギー手段が石炭から石油に切り替わっていったのである。

70年前後の緒形拳といえば「風林火山」(1969)で畑中武平、必殺仕掛人(1972~1973)の藤枝梅安が当たり役だった。

その後野村芳太郎監督の「鬼畜」(1978)に出演した後、「復讐するは我にあり」の今回の榎津に繋がっていくのである。この後も悪役を演じさせると独特の持ち味で、さまざまな悪役を演じ分けていた。そしてどんな悪役を演じさせても画面が凄惨になることはなかった。緒形拳の持つある種愛嬌というのか、独特の人間臭さがあったためではないだろうかと思う。
映画は5人の殺人事件を軸として進行させながら、そこにさまざまな彼の詐欺行為と女性遍歴を絡ませていく。そしてそのプロセスを丁寧に追うことで榎津巌の人間性を浮かび上がらせていく。
詐欺行為とは一口に言えば自分を信じ込ませその信頼を利用し相手から不法に利益を得ることである。言い方を変えれば信頼されるだけの人間的魅力がなければいけないのだが、榎津には天与のそれがあり、しかも男性としての魅力と精力もかなりのようであった。映画の中では女性にはほとんど不自由していなかったとして描かれている。そして彼は最初専売公社の人間二人を半ば衝動的に殺し、集金した26万を盗み逃亡する。その後浜松の連れ込み旅館の女将(小川真由美)といい仲になる。身分は大学教授と偽っていた。その後東京で弁護士を殺害する。そしてまた浜松へ戻ってくる。ある日ひょんなことから二人は榎津が殺人犯であることを知るのだが警察には届けなかった。その後なぜか女将と母親(清川虹子)を殺害するのだ。母親は終戦後疎開先で人を殺し15年服役し最近出所したのだと言う。
殺される前の母親と榎津の印象的な会話がある。

母親 「でもよ、わしゃあの婆あを、ふんとに殺したかったで殺しただ。
    んだもんでやったときは胸がスーッとしただ。あんたスーッとしてるかね今?」
榎津 「いや」
母親 「ほんとに殺したい奴殺してないんかね?」
榎津 「そうかもしれん」
母親 「意気地なしだね、あんた。」「そんじゃ死刑ずら」

ここで彼の父親に目を向けてみる。宗教的な戒律に従い己に厳しく、息子にも厳しく、善を標榜しようとするが、体全体から自ずと滲み出てくる欺瞞の臭いがこちらの鼻をついてくる。榎津の妻から好意を寄せられそれを拒否するのだが自分の思想が正義と考えているため逆に偽善に満ちている。そのような場面が三國連太郎と共に印象に残る。正しく生きるとはどういうことなのか考えさせられる。
そして極めつけは榎津に絞殺される間際の女将、小川真由美である。短いひと言を発するがそのひと言に凝縮されているものがあまりに多く、ご覧になる人によりさまざまな解釈が可能となる名せりふではなかっただろうか。

終戦後わずか18年後に起きた事件である。翌年にはオリンピックを控え、世の中は沸き立っていた。しかしその流れに少なからず取り残された人間たちもいたはずである。前出の会話の前に二人はこう語っていた。

母親 「娑婆はようすっかり変わっちまっただ」
榎津 「変わった。世の中くるっとるんじゃ」

榎津から見ていったい何が狂っているのかぜひとも聞いてみたいと思ってしまった。正常の概念が大きく覆されそうな不安もあるが。

この後、私が鑑賞した緒形拳出演作品はリアルタイムではないものも含めると、「鬼畜」(1978)、「ちょっとマイウェイ」(1979)TV、タクシー・サンバ(1981)TV、「陽暉楼」(1983)、「楢山節考」(1983)、「破獄」(1985)TV、「薄化粧」(1985)、「隠し剣鬼の爪」(2004)、「武士の一分」(2006)、「風林火山」(2007)TV、プラネット・アースの語り部、「白野」舞台(TV)ぐらいだろうか、90年代はほとんど映画と離れていたので抜け落ちている。見てみたい作品はまだまだある。時間を作らねばと考えている。
今オールシネマオンラインを見ているが最初の作品は内川清一郎監督「遠い一つの道」(1960)である。内容も何も知らない。ただ緒形拳が23歳に出演した作品には間違いない。ここから始まっている。しかし私にとっては「太閤記」で信長役の高橋幸治が緒形拳演ずる木下藤吉郎に向かって言った「さる」の響きが忘れられない。そう呼ばれて、「殿」と答えるにこやかな表情が今思い出すと懐かしく、悲しく、そして年齢的にも残念という他はない。きっとあちらの世界でも仲間を集めて新しい演目を考えているに違いない。この上ない贅沢な布陣で。
合掌

第11回 『追憶(The Way We Were)』(1973年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって54歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。



【作品解説】 本年5月26日、癌により他界した映画監督シドニー・ポラックの作品です。1973年のアカデミー賞6部門にノミネートされ作曲賞と歌曲賞の2部門でオスカーに輝きました。バーブラ・ストライサンドが歌う主題歌「追憶のテーマ」は、永遠に歌い継がれるであろうラブ・バラードの名曲です。主演はバーブラ・ストライサンド(ケイティー役)とロバート・レッドフォード(ハベル役)。第二次世界大戦前から戦中、戦後、その後ハリウッドを中心に吹き荒れた赤狩りの時代を背景とし、2人の恋愛模様を描いています。
この映画の中でケイティーは共産主義を支持する運動家として、戦前は大学内で活動し、卒業後も働きながら運動を展開していきます。ハベルとは一度結婚するのですが、運動家としての考え方を捨てることができずに結局離婚してしまいます。
実はこの映画の公開当時、ガールフレンドと映画を見に行ったのですが、前夜の友人との飲み会で深酒をしてしまい、映画が始まるとともに高いびき...、記憶に残っているのはケイティーが路上でチラシを撒くラストシーンのみ、というお粗末さでした。
監督が名匠ポラックであったこと、学生のとき在籍していたバンドで「追憶のテーマ」のソロプレイを担当したこともあったので、当初は軽い気持ちでこのコラムに取り上げてみようと、作品を見直しました。
ところが、声高に共産主義の理想を叫ぶケイティーの姿に、私は先の大戦に翻弄された一人の人間の人生をいつの間にか重ね合わせていました。その強烈な想いを、最後のシーンに至るまで消し去ることができなかったのです...。


極限状態の人間を支えるものとは


太平洋戦争が終結してほぼ5年が経ち、戦後の混乱もやや落ち着いてきた昭和25年9月25日。広島県広島市の広島港宇品地区に一艘の大型復員船が、ゆっくりと接岸した。
やせこけて埃にまみれた大勢の人々が次々と下船してきた。中国からの引揚者とか、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦: 現ロシア)に抑留(捕虜となり強制労働に従事させられる状態)されていた人たちが、この船の乗客のほとんどであった。
彼らは祖国の土を再び踏むことができた喜びに沸きかえっている。ある者は家族と抱き合い、ある者は再会を果たした妻と向き合って佇んでいる。妻は手ぬぐいで顔を覆い嗚咽をこらえている...。そんな光景が埠頭にあふれかえっていた。

そしてその群衆の中に、身長5尺5寸(165cm)、やせこけてはいるが眼光は鋭く、背筋をまっすぐに伸ばした一人の復員兵がいた。
当時33歳、元陸軍衛生兵の村岡清(ムラオカキヨシ)。
私の父である。

父は生きては二度と踏めぬと思っていた祖国の土の上に今立っていた。感慨もひとしおであろうとと思いきや、顔色はなぜかすぐれない。
父を含めたソ連からの引揚者の周囲を、大勢の警官が取り囲んでいる。引揚者は周囲の日本人と全く接触させてもらえない。その後それぞれの故郷に向かうのだが、警官たちもその列車に乗り込むのだ。つまり、ソ連からの引揚者は監視下に置かれ、他の乗客から隔離されているのである。周囲との会話は厳禁。まるで罪人であった。
父は、今でもその事を話すときに悔しい表情を見せる。

ソ連からの引揚者は、なぜこのような差別ともいえるような不等な扱いを受けたのか。それを述べる前に、当時の日本の状況を見てみよう。

1945年8月10日に日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日正午には、昭和天皇による「戦争終結の詔書」、いわゆるラジオの玉音放送が全国民に向けて流された。終戦といえば聞こえはいいが、日本は敗戦国となったのだ。

その年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が東京日比谷の第一生命相互ビルに設置され、日本は実質的にアメリカの支配下に置かれた。この被占領状態はサンフランシスコ平和条約が発効され、GHQが廃止される1952年4月末まで継続することになる。日本の歴史の中で、日本の国土が他国に占領されたのは、後にも先にもこの一時期だけである。

戦後の国際社会は、アメリカ、ソ連の2大超大国の対立と牽制を軸として歩むこととなる。当時アメリカが最も恐れたのは、ソ連を支える思想であり、政治体制の根本を支えた共産主義の蔓延である。アメリカ国内においては、「赤狩り(レッド・パージ)」が行われ、共産主義者が排斥されていた。この動きはハリウッド映画業界で頂点を迎え、映画関係者の間に自主規制と密告がはびこる。「追憶」の中でも取り上げられたアメリカの脚本家10人(「ハリウッド・テン」と呼ばれる)の追放事件は、戦後アメリカ史上負の遺産として今も刻み込まれている。以前、私のコラムでも取り上げたが、「ローマの休日」、「ジョニーは戦場へ行った」の脚本家、ダルトン・トランボもその一人であった。
GHQの指示により、1950年からは日本でもレッドパージの嵐が吹き荒れた。その年の7月には報道8社で300人余りが、共産主義者とみなされ解雇された。
私の父がソ連から復員したのはその2ヵ月後、まさにレッドパージの只中であった。赤い国から帰国した者に当局が神経を尖らせたのには、それなりの理由があった。
国内でプロパガンダ活動を展開するのではないかとか、共産主義のシンパ(シンパサイザー:sympathizer 支持者)となりソ連に忠誠を誓ったスパイではないかなど、あらゆる疑いのまなざしが父らに向けられたことは、想像に難くない。

しかしそのような国情を復員したばかりの父は知る由もない。北海道の実家に着くまでの約2日間、周りからの好奇の視線を浴び続けた列車内で、当惑と屈辱、そして命まで捧げたはずのこの国への不信感が胸の中で渦巻いたことだろう。今を生きる我々には想像もつかない、複雑な感情が全身を支配していたに違いない。

実家へ戻った後も、警察官が何度となく訪れ、警察署へも何度か呼び出されて取調べを受けたという。心の平安を取り戻せたのは、さらに数ヶ月後、警察官の影がようやく周囲から消えてからだそうだ。

「追憶」の主人公、ケイティーがとりつかれた共産主義、その"総本山"に5年間抑留されていた父。
厳密に言えば、抑留された当時、父は兵役義務を終えていた。シビリアン(民間人)として旧満州国東安省(現在の中華人民共和国黒龍江省)に渡り、林口県公省行政科保健股(今で言う、県庁の行政部保健課)で、主に各種伝染病の防疫業務に従事していた。そのため、抑留中は、生粋の軍人ほどの過酷な労働条件を課せられなかったというが、それでもわずかなパンと、着のみ着のままの野ざらし生活は過酷であったという。同時期に抑留された600人の仲間は、最初の3ヶ月で500人にまで減ったそうだ。昨日まで話していた仲間が、朝目覚めると隣で冷たくなっていた、ということも何度もあったらしい。

遺骸を埋めようとするのだが、ツンドラ(永久凍土)のため深く掘ることができず、弔った翌日には、遺体は狼の群れによって掘り返され、全身をくまなく食べつくされて、骨だけになっていたという。

この状況下で父を支えたのは、恐らく、何があっても俺は死なない、俺だけは絶対に死なない、そして生きて日本に帰るという意志のみであったと、私は思う。日常的に死を目の当たりにし、宗教とか哲学とか倫理とか、所詮人間が生み出したに過ぎない観念を超越し、生き抜くことの本能的な意味に極限状態で向き合った人間にしかたどり着けない境地。父はそれを垣間見たような気がしてならない。
生き抜くことこそが勝利なのだと...。

先日、父の様子を見に久しぶりに実家に戻った。居間に通じるドアを開けると正面やや左に大きなサイドボードが置いてある。中には到来物の洋酒とか、ガラス製品、コーヒーカップなどが並べてある。その上に、見慣れない置時計があった。天然石とクリスタルを組み合わせた、重量のある豪華な時計である。
父に聞くと、福田から送られてきたという。どこの福田さん?と聞くと、これだ、といってA4ぐらいの一枚の紙を差し出した。文面は「先の大戦において...」の書き出しで始まっており、文末に目をやると「内閣総理大臣福田康夫」と署名があり、内閣総理大臣の大きな角印が赤々と押捺されていた。現職の総理大臣からの感謝状である。

現金と、置時計と、万年筆と、そのほかいくつかの贈答品の中から何がいいか選んでほしいというはがきが届き、父は形になって残るものがいいと、これを選んだ。
これだけ大きければ嫌でも目について、親父を思い出すだろうなと思い、急に可笑しくなった。
そして父をあれだけ苦しめた国からの贈り物であるのに、ありがたいことだといって素直に感謝し、受け取ってしまう父の心を思うと、60有余年という時の流れの無常さ、そして残酷さを感ぜずにはいられなかった。
ちなみに、父に贈られた時計は電波時計である。東北の某所から3時間ごとに発信される電波を受信し、そのたびごとに時刻を修正するから、日本標準時との誤差は「10万年に1秒」だそうだ。数ヶ月先の政(まつりごと)にも大いなる誤差を生じる現政府から、10万年後の精度を保証する時計が贈呈されるというのも、なかなかエスプリが効いている。

父は今年の1月で満91歳の誕生日を迎えたのだがまだまだ頭ははっきりしている。昔のことは本当によく記憶していて、ある日も会話の中で、「ハラショ・ラボーチ」などというから何のことか聞くと、ロシア語で「よく働く人、働き者」の意味だと教えてくれた。そう呼ばれる捕虜はロシア兵から厚遇されたそうである。ロシア語での日常会話にほとんど不自由しなかったと、いつも自慢げに語っている。
会話を覚えることでソ連兵と粘り強く交渉し、ラーゲリ(ロシア語で「捕虜収容所」)での待遇を少しずつ改善したのだという。たくましく、したたかに、1日でも生を長らえる可能性を押し広げていったのだという。
生を長らえること、それはすなわち帰国への執念、生きることと直結した望郷の念であった。それを果たしたことが、今日までの父を支えてきたことは、間違いない。

言論の自由を謳歌できる国では、今も昔も、熱病のごとく共産主義が目指す理想にとりつかれる、ある種の人々がいる。ケイティーもその一人である。彼女は手の届かぬ谷間に見出したその花を美しいと思った。しかしその茎に連なる棘が思いのほか鋭利であることを、彼女は知らない。

 1  |  2  | All pages