Tipping Point
<新シリーズ>Tipping Point Returnはこちら

アンドロイドは機械翻訳で夢を見るか?

コンピュータ翻訳(機械翻訳)が注目を浴びている。あなたはこのトレンドをどうとらえるだろう?「翻訳者の仕事が失われるのではないか」と危惧する声も少なくない。ほんとうにそうだろうか?

私は「翻訳者が翻訳者たる存在感を示す好機だ」と考えている。

まず事実を確認しておきたい。今年ベストセラーとなった『2050年の世界 ~英「エコノミスト」誌は予測する~』の中に、翻訳の今後を扱った項目がある。「言語と文化の未来」と題された著者の分析を要約すると次の通りだ。

・コンピュータを使った翻訳技術はさらなる進化を遂げる。しかし、「言語を理解させて翻訳する」という方法ではなく、「人間が翻訳した訳文を大量にかき集めて原文に一致させる、統計学を駆使した方法」が主流であり続ける。

・言語学者ニコラス・オスラーは「コンピューターが人間の脳のように言葉を理解できるようになるには長い時間を要する。ましてや迅速かつ正確に翻訳するには、さらに長い時間が必要になる」と述べている。

・こうしたことから、あと40年かけても優秀なプロレベルの翻訳をコンピュータが行うのは難しいだろう。

誤解を恐れず一言で言えば「機械翻訳が単純な言語マッチングの域を超えることはなく、人間の言葉を人間自身の理解と創造性をもって変換するニーズは失われない」ということだ。

その通りだと思う。私は最近、講演やセミナーなどに呼ばれるとこんな話をしている。「Good morningを日本語にする作業は誰でもできるしやっている、もちろん翻訳ソフトでもできる。でも、プロの翻訳者が『おはようございます』と訳したらそれは'仕事'となる。つまり、報酬を求めるに値する」。

しかし、もしその訳者が「Good morning=おはようございますでしょ」などと片づけてしまうような人なら、それはプロの翻訳者ではない。機械と同じだ。「おはよう!/お早うございます/おっは~!out(訳さない)/グッド・モーニング/ぐっどもーにんぐぅ/(前後の流から)もう起きたのか/お目覚めか/遅いね......そんな無限の候補から根拠をもって最適な訳語を導き出すのがプロの翻訳者だ。

ここまで書いていたら、修了生で映像翻訳者の扇原篤子さんがとても面白い事例をSNSで挙げて下さっていたので紹介したい。絵本の金字塔『百万回生きたねこ』の英訳版が2013年に出版されるのだが、その翻訳者の作業に関するエピソードだ。

訳者はタイトルの英訳にあたり、「1万回死んだねこ」ではダメなのか?と悩んだという。英語の語感なのか、インパクトなのか、それとも内容の解釈からか、それはわからないが、とにかくそんなふうにしばらくの間悩んだというのだ。結局『The cat that lived a million times』に落ち着いたという。そのまんまだ(笑)。しかし、その結論に至るプロセスには人間臭が充満している。プロだ。

素晴らしき哉、翻訳者――社会にそう認めさせ続けるために今、私たちは何を習得すべきか? 機械翻訳ができない、やらないことを考えれば自ずと答えは見えてくる。社会はヒト。アンドロイドではない。

この冬休み、そんなことを頭の片隅に置きながら1冊の本、1本の映画やテレビ番組と向き合ってみてはどうだろう。(了)

ワタシの3月11日

震災から1年が過ぎようとしている。

当校は震災の翌日、「日常性の確保」を会社の方針として内外に打ち出した。震える
ような光景を映し出すテレビの画面を見守りながら、一晩考え抜いたうえでの判断
だった。その結果、講義を休講としたのは翌12日のみで、13日からは予定通りの講義
とその他の事業運営を続けた。

交通機関を乗り継いで駆けつけてくれた講師の皆さんが支えだった。誰ひとりとし
て、休みを申し出る先生はいなかった。通常日程に加え、その日時に参加できない受
講生がいることをかんがみ、同内容の講義をその翌週にもう一度行う施策も実行し
た。それを受け入れてくれた講師の皆さん、そして実家の家族等との連絡に不安を抱
えながらも通常業務に努めたスタッフを、心から誇りに思う。

そして何より、そうした時期にも関わらず学びに打ち込んだ受講生の皆さん、それぞ
れの仕事を全うしようと努めていた修了生の皆さんを誇りに思った。ほんの束の間、
ロビーで生まれた笑いの輪や、「こんにちは!」と声をかけ合う時にもらった笑顔に
励まされた。

それから5月の連休明けまでの2ヶ月間は、私の職業人人生のうちでも最も濃密な期間
となった。もちろん、身を切られるような思いで過ごした、という意味で。

思い出話をしているのではない。一生懸命やったことを誉めてもらいたいわけでもな
い。きっと多くの人がそうだったはずだから。

伝えたいのは「それが私の、震災と生きるリアル」であるということだ。

これから数日間は、多くのメディア、特にテレビは様々な特集を組み、あの出来事を
振り返るだろう。社会を俯瞰し、総括することに長けた人たちが、心を揺さぶるよう
な映像やコラム、切り口で、あの出来事の悲惨さと今も苦しむ人々の現状を伝えるだ
ろう。そして、「あの出来事を忘れてはならない。私たちにできることは何かを考え
よう」と呼びかけるだろう。

実は、私はそれに一抹の不安を感じている。メディアの総括が巧みで、瞬間的に私た
ちの心を打てば打つほど、震災は頭の中で、まるで遠い国の悲しい出来事のように整
理され、'他人の不幸'を収める箱に収まっていくようにも思えるからだ。

先の大戦が悲しい出来事で、二度とそれを繰り返してはならないとは誰もが思うだろ
う。でも、先の大戦に自らのリアルを重ねることができない私は、そうは思うが今の
24時間を大戦と共に過ごすことはできない。

皮肉なことに「あの出来事はこうだった。だから忘れてはいけない」と言われれば言
われるほど、その出来事はわかりやすい'かたち'となり、記憶の整理箱の片隅にピ
タリと収まってしまう。思い出せばたいへんだたいへんだと言いながら、基本、他人
事になる。

しかし、あの震災は私のリアルだ。彼の地の出来事としてしまい込むなど、決してで
きないし、してはならないと思う。私は今も苦しむ被災地の方々と、自分のリアルを
媒介としてつながっている。「絆」なんかではない。つながってしまっているのだ。

これから何年経とうとも、あの瞬間を共に過ごした人々とのつながりは、私の行動や
選択を決する要因になり続ける。同じ日本人だからなんていうざっくりとした理由か
らじゃない。ましてや同情や憐みでもない。被災地の復興と行く末は、私の人生のあ
り様、そのものと重なるのだ。

震災から1週間ほどしてからだろうか、スクールに宅配便を集荷する青年がやってき
た。集荷だけでなく、たまに彼の手からスクールに戻される発送物がある。スクール
資料の郵送・宅送を希望された方々に送ったものだが、なんらかの手違いで「住所違
い」が生じ、戻ってくるのだ。「これ、配達できませんでした...」と手渡された発送
物に記された宛先を見て、私は言葉を失った。その住所は津波で街ごとなくなってし
まった状況を連日テレビが映し出していた街のものだった。

この方は助かっただろうか、英語の勉強が好きだったのだろうか、映像翻訳の仕事に
どんな夢を抱いただろうか、それとも資料請求したことも覚えてはいなかっただろう
か......。

私はその資料をデスクの引出しにしまっている。そして、時々眺めながらこの1年を
過ごしてきた。きっとこれからも。

私にとっての3月11日。皆さんはどうだろうか。(了)

知を(少しだけ)深める

何かについて「知る」という行為には段階がある。見たことも聞いたこともない状態を「知らない」とすれば、見たり聞いたりして頭の中に何かイメージが残った状態をもって、多くの人はそれを「知った」と認識する。

情報が氾濫している時代だ。知りたいことや知っておいた方がよさそうなことは、パソコンやスマホ、メディアを通じて次から次へと目の前に現れる。その急流に身を任せていれば、自ずと「知っていること」は増えていく・・・。誰もが思い当たることだろう。

ところがそこに落とし穴がある。まずは次の質問に答えてほしい。

「『人間失格』は太宰治の小説ですか?」

「民主党は現政権を担う政党ですか?」

「東京スカイツリーは日本一高い電波塔になる予定ですか?」

答えはいずれも「イエス」である。何を聞くのかと思っただろう。
では、次の質問はどうか。


「『人間失格』は小説なのですね。では小説とは何ですか?」

「そもそも政党って何ですか?」

「電波塔について説明して下さい」


目の前に問われた相手がいると思って何か言葉を発してほしい。それが正確かどうかはさておき、まずは30秒でも説明できれば立派である。もしできないとすれば、その状態の「知」とは何か?誤解を恐れずに言えば、「知っている」というのは錯覚で、実は「何も知らない」に等しい。

日常生活ではどうでもよいことかもしれない。しかし、映像翻訳者をはじめメディアで言葉を商材にする人やそれを目指す人にとっては致命傷になりかねない。

冷静に考えてほしい。「小説とは何か?それは文章の形式を指すのか?フィクションは小説ではないのか?小説の対極にあるものは何か?」などについて何も考えたことがない人が「村上春樹は一流の小説家だ」という文章を読者や視聴者に売る。それは、食材について何の知識もない料理人がその辺の野山で適当に集めた草木を鍋に放り込んでできた料理を売りつけるのと同じである。

だからと言って、へこむことも落ち込むこともない。「知っている」リストを増やすことをこれから楽しんでいこうと考えた人なら、大丈夫だ。恥を忍んで言えば、上の設問はいずれも私が最近になって思い至り、自分なりに調べてようやく「知っていること」に加えたものである。

「小説」に至っては、ある編集者から「次は『実話をもとにした小説』をテーマに書評を書いて下さい」と頼まれ、気軽に引き受けたものの、いざ選書の段階になると「実話って?フィクションって?ノンフィクションって?そもそも小説って何だ?」と思い悩んでしまったのが調べるきっかけとなった。その過程でフィクションとノンフィクションの中間に「ファクション」というジャンルがあり、現代文学におけるファクションの始まりはトルーマン・カポーティの『冷血』であることなど、興味深い知識をたくさん仕入れることができた。

「知っている」の数を増やすのに、早い遅いはなく、焦る必要もない。大切なのは、見過ごさないこと、そして生涯それを楽しみ、続けることだと思う。もし共感できる部分があれば、今すぐ自分の「知ってるけど知らない」を探そう。答え探しに難航したら、ぜひ手伝わせてほしい。(了)

「やり直さない」生き方

2011年が終わる。皆さんにとってはどのような年だっただろうか。

人は過去を振り返るとき、まずは失敗したことや間違ったこと、悔いが残ることから考えてしまう傾向がある。きっとそういう仕組みなのだろう。それはそれで変えようがないし、反省する姿勢が美徳であることに間違いはない。しかし、私を含めた多くの人の反省の仕方について、私はこんな疑問と改善提案を抱いている。

より良き今とこれからを築くための反省とは、「胸を痛めてやり直す」ことではない。過去の行いを認めたうえで、「直す(修正する、改善する、活かす)」ことこそが真の反省であり、正しい。

過去は財産だ。お金をいくら積んでも買い取ることができない宝である。過去の経験があるから今があり、未来がある。あの出来事やあの体験は、良いものも悪いものも含めて、その人だけが手にした生きた証でもある。違う言い方をすれば、過去の経験や手にした知識はすべて、今とこれからの自分の振る舞いに宿るべきものだ。それが「大人がさらに成長する」という言葉の意味だと信じている。

それはそうだ、当たり前だよと感じただろうか。でも、私の目には少なからずの人が過去を軽視し、あるいは間違った反省の対象とし、できるだけ忘れてやり直すことが未来を切り開くことにつながると信じているように映る。'リセット感覚'や'自分探し'というような言葉が流行り、社会から肯定的に受け入れられる状況を見るにつけ、(どうして自分の中の過去を、そんなに簡単に切り捨てられるの?)と悲しくなる。

いい例がある。成功者や目的を達成して尊敬を集める人が「成功の秘訣は?」という質問に、「いつの間にか今の位置にたどり着いた」「絶対に諦めなかった」と答えるシーンをよく目にする。

それを私流に翻訳すると、「私は成功も失敗も、善行も悪事も、すべてを自分が生み出したものとして積み上げることをやめなかった。その結果、当初に描いたものとは見た目は異なるが、人に誇れるような今の自分が出来上がった」となる。過去を必要とし、活かし、決してやり直さなかった人たちだけが発する言葉だ。

過去だけの話ではない。今の世の中、「興味や関心事、すべきことがたくさんあって、どれもが中途半端になりがち」という声をよく耳にする。これももったいない話だ。そういう人は、「頭を切り替える」という言葉を美徳と勘違いしているのだろう。1つひとつに割く時間や労力が少なくなれば、より集中して取り組む人を決して上回ることはできない。やることが沢山あるのであれば、打つ手は1つ。1つに取り組んで得た経験や知識は、何としても異なる取組みにも活かす――。これしかない。

経験したこと、見聞きしたことは自然に身体に残るはずだなどと、何の根拠もないことを言う人がいる。残念だがそれは絶対に、ない。過去の経験や知識は、「留めて活かすぞ!」と強く願い、そう努力する人だけに宿るからだ。忘れてやり直すことを美徳と考える人には決して宿らない。

つらい経験や悲しい出来事、人の期待に応えられなかったこと、人を傷つけたこと、怠けたこと、失敗したことを心に留めるなんてゴメンだという人もいるだろう。

それでも捨て去ってはいけない。私なら他人のそんな過去を、できることなら買い取りたいくらいだ。きっと、それが今とこれからの自分の成長の糧となり、自分を強くしてくれると思うからだ。悲しんでいてもしょうがない。それらを活かすことが迷惑をかけた相手に対する唯一の償いになると、自分に都合がいいように考えたい。究極の正しい自己愛、自己中心主義だ。

少なくとも私は(過去を含めた)自分を愛せないような人とは仕事を共にしたくない。何より信用できない。風呂上りのような顔で「今日から新しい自分が始まります!」などと言われたら、気持ち悪くて卒倒してしまうだろう。そのセリフは生まれたばかりの赤ん坊だけに許されたものだ。(赤ちゃんはしゃべれないが) 私たちは力強く過去を抱いて生きる大人として振る舞い、社会に活かされる存在となりたいのだ。

このメッセージを、未曾有の災害を乗り越え、良き職業人としての目標に向かうエールとして受け取ってもらえれば嬉しい。

さぁ、今年一年を恐れずに振り返ろう。そしてその宝の山を来年のさらなる成長に役立てよう。私もそのようにして、決してやり直さず、まだまだ未熟な自分を直していきたいと思う。(了)

"生きる鏡"と暮らす

人の心は「言葉にできない感情」で埋め尽くされている。感情は目には見えないから、それは確かに存在するはずなのに再現できない。再現できないからその感情を人と共有できない。だからストレスが溜まる、苦しい。

裏を返せばその感情を言葉で表現し、他者と共有できるようになった時の喜びは測り知れないほど大きい。最近そのことをあらためて実感した。

犬と暮らして15年ほどになる。実家で暮らしていた期間を加えれば25年ほどだろうか。飼い犬への想いは強い。しかし愛犬家かと問われればうつむいてしまう。映画やテレビ、小説、ネットにあふれるペットへの愛情物語や献身的な施しを見て、いつも軽い自己嫌悪に陥っている。自分はその何分の1もしていないからだ。

それでも、自分なりの想いがある。それが言葉にならない時期が、ずいぶん長く続いていた。飼い犬についての、私の"自分で自分の考えがわからない具合"は、恥を承知で言えば、こんな感じだ。

私には子供がいない。(もし子供がいたら、その想いは目の前の犬に抱くものに近いのだろうか)などと考えたくなる気持ちを、一方で強烈に抑制する自分がいる。所詮、犬は犬だ。「うちの子」ではない。そんなことを頭に描くこと自体、子供を大切に育てている人に失礼だ、人と犬との区別もつかないペット馬鹿に成り下がるのはゴメンだと、もう一人の自分が叱っている。

だからいつも自分にこう言い聞かせてきた。(飼い犬を家族であるかのように語るべからず。友人やご近所の方々が子供の話で盛り上がっていても、絶対に同じテンションで犬の話を持ち出してはならない。たとえ「犬も子供と同じだね」などという甘いささやきに遭遇しても(そう切り出す人は案外多い)、「犬は犬だから。子供ではないよ」とクールに応えるべし)。事実そのようにしてきた。

これまでに2匹の犬との別れを経験した。その喪失感は今でも私の身体から抜けきっていない。目の前の犬たちとも、必ずそんな日がやってくるのだろう。その時、自分がどれだけ打ちのめされるかは容易に想像できるが、そうであっても、どんなに人から慰められても、その時はこう応えると決めていた。「犬は犬だから。人の死とは違う」。

それが正しいと思っていた。でも、なぜか苦しかった。

最近、ある企業の広報誌の依頼で「せつない本」をテーマに選書と書評を行った。
軽い気持ちで引き受けたものの、それから約1ヶ月、「『せつなさ』とは何か」という大命題と格闘することになるのだが、その話は別の機会に譲ろう。1冊の本に出会った。『ある小さなスズメの記録 〜人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯〜』というタイトルだ。

第二次大戦初期から戦後にかけての12年間を1羽のスズメと過ごした老婦人の実話である。1950年代に欧米でベストセラーになった。昨年末、日本で発行された新装翻訳版でその存在を知り、今回のテーマに沿った1冊として取り上げた。

話を戻そう。飼い犬への私の想いに1つの答えを示してくれた一節は、意外にも物語の中にではなく「訳者のあとがき」にあった。

12年に及ぶ老婦人とスズメの生活に、身も心も入り込んだであろう翻訳者は、その苦労や行間の分析に加え、自身の言葉でこう書き記している。

「もの言わぬ動物を、人生の『同伴者』として共に過ごすことは、自分自身の内側に棲む、生きている鏡と会話を続けるようなものだ。だからこそその喪失は、人間の友を亡くすつらさとは種類の違う、自分自身の内側の、部分的な喪失とも等しい」。

これだと思った。私の心に居座っていた「言葉にできない感情」の正体に、ついに出会うことができた。しかも、かくも美しく気高い文章によって。

自分の心の問題に1つの決着をつけてくれた翻訳家に、感謝してもしきれない気持ちになった。この一節に出会うのに必要であれば、貯金のすべてをはたいてもいいとさえ思った。(実際には千円札2枚でおつりが来ました)

翻訳を手掛けたのは、小説『西の魔女が死んだ』などの創作でも知られる梨木香歩さんだ。彼女は『ある小さなスズメの記録』を翻訳中に、長年連れ添った愛犬を失ったという。その犬から与えられた多くのものが、本書の翻訳に生きたとも綴っている。

今日も、私はもの言わぬ同伴者に向き合い、こう語りかける。(君たちは所詮犬で、人間である僕を理解できない。もちろん僕も君たちを理解できない。世の定義に従えば、君たちは僕の家族とは言えない。でも、君たちはどうやら僕の内側に棲んでいる、僕自身の一部を映し出す鏡らしい。ならば、生きる限り、楽しくやっていこう----)。

言葉を紡ぐことを生業に選んだ人、選ぼうとする人は、言葉にはこんなに偉大で人を救う力があるということを、ぜひ知っていてほしい。 (了)

2011年2月25日 初出

ポケットに'mission'を忍ばせて

節電の夏がやってきた。

この国がかつて経験したことがない緊急事態に、多くの人が戸惑いながらも様々な工
夫や努力を行っている。

その行動自体はとても美しいと思う。何に対してもこじつけの反論や皮肉の言葉が心
に浮かんでは消える癖がある私でも、「節電しなければ電気が止まる」と言われた
ら、なんとかできないかと思う。

ただ、少しだけ考えたい。節電は目的ではなく手段である。多くの人がその事実を忘
れがちなことが気になる。

日本に暮らす私たちは「道」が大好きだ。「みち」ではなく「どう」と読む。柔道や
剣道、合気道に茶道。そうした伝統あるものとは関係のない営みにも、「道」をつけ
て不思議な何かに仕立て上げる習慣がある。野球道や営業道、パチンコ道に整理整頓
道(断捨離道)、数え上げたらきりがない。

「道」とはプロセスである。その先には目標、つまりゴールが待っているはずだ。散
歩や運動を除けば、道を歩くことそのものを目的にしている人はいないだろう。『ち
い散歩』でさえ、ぶらりと立ち寄るお店や施設にはスタッフが事前に話をつけている
(と、番組で立ち寄られたお店の人から聞きました)。

だが、道半ばにある人の少なからずが、道を歩む行為そのものに美徳や価値をこじつ
けようとし、ゴールテープから目を背ける傾向がある。この国の人々は特にそうだ。
個々の資質の問題ではない。そうした空気がこの社会では支配的なのだ。受験道で力
尽き、せっかく念願の学校に入ったにもかかわらず、その後抜け殻のような日々を過
ごす一部の若者がその典型的な例だろう。

さて、節電の話だ。節電は私たちのゴールではない。節電によって暮らしを守り、本
来あるゴールに達すること。それが、自分のため、社会のため、ひいては次代を担う
子供たちのためになることを忘れてはならない。節電に夢中になりすぎて消耗し、委
縮し、歩みを緩めることなど、私に言わせれば本末転倒、言語道断である。

仕事で責任ある業務を担ったことがある人ならわかるだろう。目的に達するプロセス
には、必ずと言っていいほど予測不能かつ想定外の障壁が現れる。そこで心が折れる
か、言い訳を考え始めるか、あるいは(やっぱりな)とニヤリと笑って突破を試みる
か----。そのパフォーマンスによって、できない人か、できる人かが決まる。

『もしドラ』の大ブームについて、古くからのドラッカー信者の私としては多少の異
論がある。しかし、高校球児が砂をかみ、日々理不尽なしごきに耐え、全国から精鋭
を集めた強豪校に敗北覚悟の戦いを挑んでいくというこの国では当たり前の事象(高
校野球道)に対して、同書は「高校野球の目的はファンや母校を応援する人々を感動
させることだ」という明確な目標を設定し、多くの大人をハッとさせた。それはド
ラッカーの教えの中核であり、秀逸なアイデアだと思った。

ともすれば「道」に没入しただけの青春をすごしがちな若者たちに、「社会的行為
(この場合高校野球)には共通の目標が必要であり、それに向かって一心不乱に歩む
ことこそが美しい」という、その後の長い人生を生き抜くうえで、最も重要な教訓の
1つを同書は諭している。

道に没入しすぎるとmissionを見失う。あるいは、missionを抱きながら歩むことを苦
にし、歩みを止める都合のいい'言い訳'として、道に心身を投じる自分に酔おうと
する。そんな人が少なくない。このように、道そのものを目標にすり替える悪習は、
その人の心の弱さの現れでもある。

歴史上、社会ぐるみでそんな風に振る舞うことで、私たちはどれだけ大きな失敗を繰
り返してきただろう。先の大戦も然り、原発事故も然りだ。

あなたの(私の)、そしてこの社会のゴールは何か。今一度それを確認し直そう。節
電の努力は必要だろう。しかし、それによってポケットからmissionを放り出しては
ならない。「これで身軽になった」と、自分を騙してはならない。一度手放した
missionは、二度とその手には戻らないからだ。

グローバル化は増々加速する一方だ。私たちの目の前に現れたこの程度の障壁に同情
し、待ってくれるほど世界は甘くない。

水平化に向かう世界は、コミュニケーションを担うプロを必要とする。そうなった世
界で活き活きと活動したいと願う人は、この夏こそこれまで以上のエネルギーを注ぎ
込み、自らのmissionに突き進んでほしい。

そのために電気が必要なら思う存分使うといい。少なくとも私は支持する。

なぜなら実りある未来は、そうして育ち、開花した人材を必要としているからであ
る。(了)

黄金色の絨毯 〜1989年、ジャパンカップの記憶〜

冬に向かう静かな日曜日。突き抜けるような青空を見上げていると、ふと湧き上がってくる、そんな記憶の一つや二つは誰にでもあるはずだ。

1989年初冬、バブル経済の宴の熱がまだ冷めやらぬこの国に、ニュージーランドから一頭の牝馬がやって来た。名を、Horlicks(ホーリックス)という。
 
彼女は東京、府中市の東京競馬場で開催される、国際招待馬と日本代表馬が凌ぎを削る一大レース、「第9回ジャパンカップ」に出場予定であった。

ジャパンカップは、日本のホースマンたちがフランスの凱旋門賞や米国のブリーダーズカップといった世界最高水準のレースをこの国でも実現しようと創設したレースである。しかし、欧州や北米の、その時点で活躍する一流馬が集まっていたかと言えば、必ずしもそうとは言えなかった。東の果ての日本。繊細なサラブレッドにとってその地は遠く、輸送を強いるにはあまりにも過酷な距離が介在していた。

しかし、「世界中の富が日本に吸い取られるのではないか」といわれた時代である。海外のホースマンにとって、当時の日本には今の中国と同じようにマネーの香りが充満していた。多少の無理は承知で、参戦する意味があったのだ。中でも89年は特別な年になった。世界の超主役級が一堂に会したのだ。

米国からは芝2,400メートルというジャパンカップと同じ距離で、 当時の世界レコードを保持していたホークスターが参戦。「一度逃げたら何者にもその影を踏ませない」と恐れられたターフ(芝コース)の超特急だ。英国からは、 500キロを超す巨体を重戦車のように震わせながら他馬を蹴散らし、欧州の主要レースで連勝を重ねていたイブンベイが来日した。その鋼のような筋肉に、日本の競馬ファンは言葉を失った。

それでも真打は別にいた。競馬界で最も権威あるレース、この年の凱旋門賞を勝ったキャロルハウスが参戦したのだ。凱旋門賞馬、日本のターフに立つ----。その事実だけでも、'衝撃的な事件'であった。

その他の招待馬も第一線級の猛者ばかりだった。ただ一頭、南半球からやって来たホーリックスを除いては----。


迎え撃つ日本陣営も、天皇賞(春・秋)を勝ったスーパークリークやイナリワンら、現役最強馬を送り出した。その中には、日本競馬史上最も多くのファンを獲得したことで知られるオグリキャップも名を連ねていた。日本で地球最速の馬が決まる。そう言っても過言ではなかった。

ホーリックスと共に来日したのは、調教師のデビッド・オサリバン、彼の長男で調教助手のポール、その弟で騎手を務めるランス。ニュージーランドの競馬一家である。そしてもう一人、まだ19歳の女性厩務員(競争馬の世話をする係)、バネッサ・バリーがいた。

彼らはこのジャパンカップに賭けていた。サラブレッドを愛し、育てることでは誰にも負けないという自負があるのに、常に欧州や米国の後塵を拝してきた南半球、オセアニアのホースマンの力を世界に知らしめる機会は今をおいてない----。ホーリックスにはその資格があると信じていた。

しかし、下馬評に耳を傾けるまでもなく、彼女はあくまでも'脇役'の扱いだった。

今でこそ「強い牝馬」が多数出現しているが、当時は牝馬と牡馬の間には絶対的な力の差があると信じられていた。ましてや競走馬のピークは4〜6歳というのが定説だ。7歳の彼女は、既に下り坂だという評価がほとんどだった。きら星の如く居並ぶスターの中にあって、ダークホースといえば聞こえがいいが、要するにファンや専門家、マスコミにとってのホーリックスは「眼中にない馬」だったのである。

ジャパンカップ当日、東京競馬場には歴史的瞬間を見届けようと14万人を超える観衆が集まった。その場にいた誰もが、当時の様子を「一種異様な雰囲気だった」と振り返る。

ゲートが開いた。始まったレースのあまりにも壮絶な展開に、14万の観衆とテレビの前のファンは息を飲んだ。

ホークスターに先頭を譲らずイブンベイが逃げる、逃げる、逃げる。競馬史上例のないハイペース。なんと、1,800メートルまでのラップタイムが、その距離の日本レコードを上回っていたのだ。「マラソン選手の10キロ地点のラップタイムが、トラック競技1万メートルの新記録だった」と言えば、そのスピードの異常さがわかるだろう。

スーパークリークに騎乗し、中段で追走していた天才ジョッキー、武豊でさえ「このままでは馬が壊れると恐ろしくなった」と後に語っている。武と同じように、そこで半数以上の馬と騎手の心は折れていた。さすがの凱旋門賞馬も、見せ場もなく沈んでいった。

ホーリックスとランス・オサリバン騎手は、そんな殺人的、否、殺馬的なペースの中にあって、絶好の3番手で折り合っていた。そして、じっと最後の直線を待っていた。

彼女をそうさせたのは、ランスの手綱さばきだけではないだろう。サラブレッドを愛するオセアニアの人々が託した想いが、(ホーリックスよ、耐えよ)と励ましていたに違いない。

彼女は最終コーナーを過ぎるとホークスターとイブンベイを並ぶ間もなくかわし、先頭に立つ。そして、冬枯れで黄金色に輝く府中の直線走路を風の如く疾走した。その姿はまるで、オスカー像を抱くことを確信し、自信に満ちた面持ちで授賞式場への赤い絨毯を歩む女優のようでもあった。

残り200メートル。 しかし、ホーリックスと鞍上のランスはまだ、勝利を確信するには至らなかった。

彼女を猛然と追う馬が一頭だけいたのだ。オグリキャップである。「オグリはレース前にホーリックスに一目惚れしていたのだ」という逸話は今でも大真面目に語り継がれているが、真偽は定かではない。

ただ、オグリもまた、エリート街道とはほど遠い、雑草の地から這い上がってきた馬である。そんな彼を特別な想いで見守るファンに背中を押され、神がかリともいえる脚力でホーリックスに迫る。

二頭はほぼ同時に2,400メートルを駆け抜けた。その走破時計は、2分22秒2。世界のどの競馬場でも表示されたことがない4つの「2」に、東京競馬場はどよめき、誰もがその目を疑った。驚異の世界レコードである。

ホーリックスはオグリの猛追をクビの差退け、悲願のジャパンカップを手にした。

その時、14万人、テレビを含めれば数百万人の眼差しは、ようやく南半球からやって来た'女優'に向けられた。「彼女こそが真の主役であったのだ」と、誰もが認めた瞬間である。

オサリバン一家は涙でホーリックスを称えた。バネッサもまた、涙でくしゃくしゃになった顔でホーリックスを見上げ、その喉をやさしく撫でた----。

馬は孤独を嫌う。ホーリックスは特に寂しがり屋だったという。南半球からの長距離輸送、季節の逆転、見慣れぬ景色・・・。しかも、日本では検疫上の理由から、オセアニアの馬を隔離して管理しなければならないという、厳しく辛い規制があった。

レースの日まで、バネッサはホーリックスに尽くした。昼夜を問わず彼女に寄り添い、心と身体の状態に注意を払った。それでも寂しそうにしていると、祖国から運んできた大きな鏡を彼女の前に置き、「ここに友達がいるよ」と声をかけた。

凱旋門賞馬が、世界レコードホルダーがどれだけのものなのだ。私のホーリックスが必ず一番にゴールする----。怖いもの知らずと言えばそれまでだが、バネッサはきっと、そんな光景を信じて疑わなかったに違いない。

私の手元に一枚の写真がある。

レースの直前、東京競馬場のパドック(これから走る馬を観客に披露するために周回させる円形の馬道)を歩むホーリックスと、その手綱を引いて歩くバネッサが写っている。

2人にとっては晴れの舞台であるはずなのに、背景の観衆たちは誰ひとりとしてホーリックスを見ていない。きっと彼らの目線の先には、お目当てのスーパーホースたちがいるのだろう。

バネッサはホーリックスを見つめている。(大丈夫、私はいつもあなたと一緒だよ)と話しかけているように見える。(あなたの力のすべてをこのレースで出し切りなさい。必ず勝てる)と叱咤しているようにも見える。

「競馬なんてスポーツじゃないよ」と言う人は少なくない。私には今、それに反論し得る明確な言葉がない。この先も、見つからないかもしれない。

ただ、1989年の初冬にニュージーランドからやって来た彼女たちのことを想うとき、「命を賭けて走るサラブレッドとそれを支える人たちに、自分の人生を重ねてみるのも悪くないよ」と、小さな声で囁きたい気持ちになる。

           --・--・--・--・--

オグリは今年、惜しまれつつ天寿を全うした。ホーリックスは今もなお、ニュージーランドの地で余生を送っているという。

冬に向かう空を見上げていると、凍えかけた心に小さな火を灯してくれる一つの記憶が、私にはある。(了)

※ホーリックスはこの後、2011年8月24日に天に召されました。

重力に抗う

地球の重力に心まで引かれた者と解放された者。人間をそんなふうに2つに分けた世界観を『機動戦士ガンダム』シリーズで示したのは、アニメ原作者の富野由悠季だ。未来に起きる壮絶な戦闘は、国や肌の色、貧富や政治思想の差異ではなく、"心のありどころ"の違いが要因で生じるという衝撃的な内容である。

真の同志は表面上の敵軍にいるかもしれないし、自軍の中にほんとうの敵がいるのかもしれない。さらに話を複雑にしているのは、登場人物それぞれが自らの"心のありどころ"について、明確な自覚がないという設定である。

「重力」は人間の負の部分を誘発する。進化を嫌い、未来から目を背け、今がそこそこよければそれでいいと思う心を誘う。地面にへばりつきながらも、もうこれ以上"落ちる"ことはないだろうと考える。足元に地表がなければ、重力に引かれてどこまでも落ちていくということにすら気づかなくなる。

一方、重力から解放された者は、人間はなすがままにしていれば自滅に向かうと気づく。そして空を見上げ、無限に広がる宇宙に次代のありようを見出そうとする。その最も進化した姿を、原作者の富野は「ニュータイプ」と名付けた。日本のアニメーション・クリエーターがもつ想像力と創造力には、ただただ感服するばかりだ。

それは確かにSFの世界の話かもしれない。でも、「重力に心まで引かれた人」と「重力に抗う人」という人間の在り方は、実は富野の目に映った今の社会の実相ではないかと私は見ている。

誤解を恐れずに言えば、私は自分が出会った人やメディアを通じて知った人を2つに分ける習慣がある。空を見上げて手を伸ばしている人と、そうでない人だ。社会的地位や評価はそれなりに意味があるだろう。しかし、その差異は、小さな山の上や高層ビルの最上階に鎮座しているか、運動場で肩車をされているか程度の違いでしかない。問題は、その人が今この瞬間、空を、自分の未来を、より良き世界を見つめて手を伸ばしているか、である。
 
俗に言う「上昇志向」とは似て非なるものだ。人より高い位置に居座ったところで、重力の呪縛から逃れたことにはならない。私が美しいと思い憧れるのは、現状に満足せず、社会に自分が生かされる理想の在り方を常に求めて、重力に抗い、空へと向かおうとしている人の姿だ。そんな人は、高台から世間を見下ろして満足顔をしている人の何倍も輝いて見える。

世直しの話ではない。ビジネスパーソンとして日々活動している誰にとっても関係のある話だ。私たちは日々ままならない出来事の中で、「それなりにやっていれば何とかなる。自分は自分なりに努力している」と自分自身を慰めがちだ。しかし、それはまさに「重力」にズルズルと引かれ始めた瞬間である。

私たちは常に目に見えない「下へ下へ」という力に支配されている。いつものことをいつも通りにやっているつもりでも、現状に止まることすらできない。鳥は羽ばたいているからこそ水平飛行を保つことができるのに、それに気づかず心の中でこうつぶやく。----どうして自分だけ恵まれてないんだろう?

しかし、今の立ち位置(年齢?学歴?肩書き?収入?財産?国籍?人間関係?)などどうでもいいではないか。そんなちっぽけなハンデなど、重力という人間すべてに平等に課せられた足枷に比べれば、取るに足らないものだ。「あなたは、重力に抗うか?身を任せるか?」----まずはこのシンプルな問いかけに、答えを出すことが大切なのだと思う。

私は自他共に認める楽観主義者である。しかしそれには根拠がないわけではない。私の立ち位置などは社会のものさしからすれば地面どころか地下2階の駐車場かもしれない。が、それでもなお、上を見上げれば、スクールで出会った志の高い人たちと歩んでいる未来の自分が、プラネタリウムのように視界に広がる。重力に抗う気力だけは失いたくないし、失わない。

それでも時々、もう重力に身を任せてしまいたいよと下を向きたくなることがある。私を含めてそんなふうに見える人がいたら、「上を向こうよ!」と叱咤してほしい。重力に抗おうと努める者にとって、そんな言葉は心地よい風、上昇気流になるからだ。(了)

コトバはヒカリ

2008年1月20日の日曜日、一つの映画祭が催されました。
「CityLights(シティ・ライツ)映画祭」。目の不自由な方々と一緒に映画を鑑賞する映画祭です。

「映画が見たいけれど鑑賞がままならない」という視覚障害者の方々のために、すべてのシーンを音声で解説した原稿を作成し、ナレーターが朗読する----。テレビ番組の副音声でこうした試みが時々なされていることは知っていましたが、映画、それも多くの観客が同居する劇場で、それを実現しようと努力している団体があったことを、恥ずかしながら、私は知りませんでした。

運営にあたっているのは、「いつでも誰でも当たり前に立ち寄れる『バリアフリー映画館』の建設」を目指す団体シティ・ライツと、多くのボランティアの皆さんです。そのなかに、当校の修了生で、現在は編集者・ライターとして活躍されている方がおり、その活動について教えて下さったのです。事後報告になりますが、当校はその活動主旨に賛同し、「第1回 CityLights(シティ・ライツ)映画祭」に協賛することを決めました。協賛といっても、とても小さな第一歩です。実質的に運営の役に立つ規模の応援ではありません。まずは実際の様子を拝見して、今後私たちに何ができるかを考えようと、私は会場に足を運びました。「音声解説の制作には、映像翻訳者の作業に通じ、役立つヒントがある」とも思ったらです。

会場は、多くの人々で賑わっていました。目の不自由な方々もそうでない人も、この映画祭を心から楽しみにしていたことがすぐにわかりました。スタッフやボランティアの方々の誘導や運営管理も整然とスマートにとり行われていて、例えば行き来がしやすいようにゆったりと取られた座席前や通路には、盲導犬がちょこんと座っていたりなど、居心地がよい心配りがなされていました。

上映作品は、いずれも欧州の秀作『ミルコのひかり』と『善き人のためのソナタ』の吹替え版。私はドイツ映画で2007年にアカデミー賞外国語映画賞を受賞した『善き人のためのソナタ』と、幕間に企画されたパネルディスカッション「音声ガイドの舞台裏」を楽しませて頂きました。会場ではFMラジオを貸し出していて、これで周波数を合わせると音声ガイドを聞けるのです。イヤホンを付けな ければ、普通に吹替え版を楽しむことができます。

私は持参した小型ラジオで音声ガイドを聞きながら鑑賞しました。
そして鑑賞後----。私の心に焼きついたのは、「コトバはヒカリ」であるという真実です。

音声ガイドの制作には、実に多くの人が関わっています。まずは原稿を作る人たち。何人ものボランティアの方々が、直接集まって議論を繰り返しながら原稿を仕上げていきます。映像翻訳に関わる、関わったことのある皆さんなら、1本の作品のシーンをコトバで説明するということが、どれほどの繊細さと忍耐力を必要とするか想像がつくと思います。そうしてできた原稿を監修する人がいます。概ね、元の原稿は「情報量が多過ぎる」そうです。監修には実際に目の不自由な方があたることが多いようで、作品の流れを壊さず、それでいて観客に必要な情報や感動を伝えるコトバを適格に残していきます。

パネルディスカッションではひとりの監修者が、「映画は見るためのものであって、コトバですべてを伝えることなんてまず不可能ですよ」と、堂々と語っておられたのが印象的でした。それを言ったら元も子もないし、何より視覚障害者の方々ががっかりするだろうって? 冗談じゃない。事実は事実。映像翻訳の原点だって、そこにあるじゃないですか。私はこの団体で音声ガイドを作る人たちが、それが形態としてはボランティアであれ何であれ、逞しく信頼にたるプロとしての気概に満ちていると感じました。

そしてその原稿を読むナレーター、それらを映像に組み込む作業を行う人・・・。一つひとつの音声ガイドを、字幕やリップシンクの吹き替えと同じように尺を合わせ、フレーム単位で気を配りながら挿入していくのです。これはもう、「もう一つの"映像翻訳"」と呼ぶにふさわしい作業だと感動しました。それぞれ作業は異なっても、関わる人すべてに「映画が大好き!」という思いが共通していることにも胸を打たれました。

外国語がわからない人のための映像翻訳者、視力に障害のある人のための音声ガイド制作者。コトバでヒカリを与えるという共通点をもつ両者は、良き友であり、良きライバルであるべきだと思いました。そして、良きライバルがもっている技術、ハート、ミッションから、我々が学ぶべきことはたくさんあると、心を新たにしました。

同団体やそれを支援する方々とは、少しずつよい関係を築いていければと思っています。また、皆さんのなかに音声ガイドの制作を通じて自分を磨きたいと思う方がいらっしゃれば、ぜひシティ・ライツさんの活動に興味を持って下さい。(了)

※このコラムは2008年1月の「Tipping Point vol.101」に加筆修正を加えたものです。

忙しい人たちへ

映像翻訳の技術の習得や英語力の向上を心に誓ったものの、今の仕事が忙し過ぎてなかなか集中できない...。そんな不安の声を、少なからぬ受講生・修了生から耳にします。

その気持ちはとてもよくわかります。課題に全力を注げなかったり、時間的にどうしても講義に出席できなかったりすると悔しいですし、めげそうになりますよね。私も同じような気持ちになった経験が何度もあります。

でも、「今の職場でよく働いている人や仕事を任されている人ほど独立起業に向いている」という法則があるのも、一つの事実です。

そこで、近い将来、本気で独立を考える人にぜひこんなアドバイスをしたいと思います。

目の前の仕事に専念する日々の中にあっても、「常に新しい職能について考えている、イメージしている」ということを心掛けて下さい。

継続こそ力なのです。それは、本業に支障があるほど強く、大胆である必要もなく、かといって、気晴らしや現実逃避ではなく、頭の一部分ででもいいのでゆっくりと、ロジカルに、自分を信じて、根気強く継続するのがコツです。決して無理をしたり、今の境遇にストレスを感じてはいけません。

そのようにして映像翻訳という職能に向き合い、学校との関わりを保ち続けてくれた修了生がデビューしていく姿を見ると、私はこの仕事を選んでほんとうによかったと思えるのです。

忙しい人、応援します。(了)

※このコラムは、2003年9月の「Tipping Point'Vol.9」に加筆修正を加えたものです。

 1  |  2  |  3  | All pages