気ままに映画評

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2004年9月 アーカイブ

愛なくして映画は語れない!『LOVERS』はジャンルを超えた秀作だ by 村山美穂子

「あなたの好きな恋愛映画は何ですか?」――。

よくありがちなそんな問いかけに、ふと立ちすくむような思いをした。
好きなマフィア映画は?と聞かれたら「「ゴッドファーザー」ね!」、冒険映画なら「ズバリ「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」よ!」と、難なく即答できる。しかし恋愛映画は?と問いかけられると、「"恋愛映画"ってそもそも何なの?」という大きな疑問で、私の思考は立ち止まってしまう。
恋愛映画というジャンル。'恋愛モノの大作'と言われる「タイタニック」には、確かに恋愛ドラマが描かれている。しかし、見方を変えれば冒険映画とも、パニック映画とも呼ぶことができる。それに対して'人間ドラマ'として大ヒットした「フォレスト・ガンプ/一期一会」には、主人公の出会った人々に対する一途な愛が描かれていた。これは十分、恋愛映画と言えるはずだ。
人間を描けば必ずそこに愛は存在する。愛を描けば必ずそこにドラマが生まれる。つまり、あらゆる映画に愛は溢れ、どんな映画でも恋愛映画に成り得るのではないか。

チャン・イーモウ監督作、アンディ・ラウ、チャン・ツィィー、金城武が出演する「LOVERS」。劇場公開時に大きな話題を呼び、新春にビデオ・DVD化される作品だ。中国唐の時代、武術の達人である男女3人が戦い、罠を仕掛け合う。同じくチャン・ツィィー出演のアカデミー賞作品賞ノミネート作「グリーン・デスティニー」や、同監督の前作「HERO」では、ワイヤーアクションや映像美が注目され高く評価された。今回の「LOVERS」でもそんなアクションや映像美に観客は圧倒される。
しかし、これを単なるアクション映画として期待した観客は、そこに描かれた"愛"の重さに面食らったに違いない。

愛を犠牲にし、戦う使命に生きた男と女。そして'無条件の愛'の存在を知らなかったもう1人の男。長年育んできた愛と、一瞬にして生まれた愛が、そこにはある。
愛を捨て、己の使命のために命を捧げるか、使命を捨て、命をかけた愛に生きるか。そんな選択を迫られる女の姿が胸を打つ。風の吹く森で男と別れ、女は独り、黙してその場所にたたずみ続ける。微動だにしない女。観る者には重く、長く感じられるシーンだ。でも、女にとって、その時間はまさに一瞬であった。ほんの一瞬で、道を決めなければならない・・・。

女はその時どう考えたのだろう。私は、何も考えられはしなかったのだろうと思う。できることはただ、自分に正直になること、それだけだ。
女の決断が、男2人のその後の人生をも決定づける。お互いがお互いを愛するが故のそれぞれの決断。体を覆う鎧を脱ぎ捨て丸裸になった時に初めて、愛に真っ向から向き合うことができたのだ。

それぞれが決断を迫られる静寂の時間、私の目からは涙が溢れ出た。誰しもが生きていれば避けることのできない決断の時。決断の善し悪しは、後にならなければ分からない、神のみぞ知る運命である。それならば、自分の本能と心の声に正直でありたい。愛を犠牲にするより、愛のために我が身を犠牲にしたい――。そんな、人間の心のどこかに眠っている情熱を呼び起こすパワーがこの映画にはある。

しかしこの作品を、「三角関係の陳腐な愛を描いた陳腐なストーリーだ」と批評する声もある。だが、私はこう言いたい。「傍(はた)から見れば、どんな愛も身勝手で、愚かで、陳腐なもの。そんな愛のために人の人生は大きく左右される。それこそが古今東西の常なのだ」。愛の本質に目を向けさえすれば、この作品の登場人物の心情に深く入り込むことは、決して難しいことではない。

中国語の原題は「十面埋伏」(四方八方に伏兵がひそんでいるという意味)。それをわざわざ「LOVERS」とすることで、これは"恋愛映画"なのだということを事前に認知させ、幅広いファン層を取り込もうとする映画配給会社の意図がうかがえる。壮絶なアクション・シーンを期待していた観客への配慮なのかもしれない。
しかし、饒舌な謳い文句でいかに飾り立てたとしても、映画の本質は何も変わらない。観る者が"愛"に素直であろうとすれば、多くの映画は'恋愛映画'になり得るが、そうした気持ちがない人にとっては、半端な駄作になる。そういうものではないだろうか。


村山美穂子●むらやま みほこ
映像翻訳者。2002年、日本映像翻訳アカデミー・実践コース修了。主な作品にアニメ「スポンジ・ボブ」(吹き替え)、情報番組「ビデオファッションNews」など。