気ままに映画評

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2006年3月 アーカイブ

『クラッシュ』―「自分は善人だ」と言うのなら、この映画で真の姿を見よby 村山美穂子!

中国の思想家、孔子の言葉を連ねた本を何気なくめくってみた。そこには、人間ならば当たり前とも言える常識的な行いが、「教え」として綴られている。
しかしその言葉を目にした途端、胸が締め付けられ、心に何かがチクチク刺さるような鋭い痛みを感じた。自分の欠点を、未熟であるがゆえに封印していた弱点を、ズバッと指摘されたからだ。
孔子の言葉は、私に「自分自身を見つめ直せ。悔い改めよ」と囁く。普段忘れていた、否、あえて目をつぶっていた自分の行いに向き合いなさいと背中を押してくれるのだ。

最近は「自己啓発本」と呼ばれるジャンルの本が良く売れているらしい。優れた自己啓発本は、読み手を励まし、やる気を起こさせてくれるのが特長だ。しかし時には、読み手を遠慮なく攻撃し、弱った心に正論で追い討ちを掛ける。結果、さらに落ち込んでしまうこともある。
しかしそんな時は大概、自分にとっての真実が語られている。「痛いところをついている」のである。等身大の自分と向き合うという行為は、辛いのだ。

2006年、第78回アカデミー賞で、大方の予想を覆して作品賞を受賞した「クラッシュ」。前年の作品賞「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本で一躍注目を浴びたポール・ハギスの監督デビュー作品である。
舞台はロサンゼルス。車の"クラッシュ"(衝突)が発端となり、様々な人間同士の"クラッシュ"が引き起こされる。衝突は同時に、人種や職業の違いから生まれる偏見や差別といった、人間の負の感情を呼び起こしていく。

この映画は、私たちの心にある痛いところついている。否、そんな表現は生ぬるい。私は、知りたくなかった自分の心の闇をえぐり出され、目の前に突きつけられた気持ちになった。

人種差別、偏見による差別は絶えない。それは、異種なるものが共存する難しさを物語っている。
しかし実際にはどうか。映画の舞台となるロサンゼルスという街では、異種なる人間同士が接触する機会はほとんどない。それぞれが個別のコミュニティーを結成し、自然かつ意識的にその範疇で快適に生きる術(すべ)を探す。同じ大都会でも、地下鉄やバスが重要な役割を果たしているニューヨークとは違い、車社会のロスでは、異種なる人同士が接近する場すら無い。
街を移動していても、車という個室で、自らを閉ざす街、それがロスだ。
しかし、いったん車の衝突事故が起これば、そんな鎧は一瞬のうちに破壊される。丸裸となった異種なる人間同士の、鈍く重い衝突音が響き渡る。

異種なるものへの嫌悪感や偏見は、普段はベールの下にある。"人種差別は好ましくない"、そんな美しい観念で、多くの人が武装している。しかしそんな鎧はあっけなくはがされる。例えば複数の人種が衝突した瞬間にそれは起きる。

この映画に「解決策」の提示など、無い。しかし誰もが苦しむ姿がある。解決へと努力する人間も登場する。それでも世の中は、変わらない。それが現実だ。

10年以上前になるが、私はアメリカで数年暮らしたことがある。滞在4年目になって、「人種差別」の存在を実感した。言い様のない嫌悪感が湧き上がってきた。
それは、私自身への嫌悪感である。自分が他の人種に対し、偏見や差別的な感情を、知らず知らずに抱いていたことに気付いたのだ。
異種な者が混在する社会で暮らしていく難しさを知り、差別や偏見などとは縁が無いと思っていた自分が、いつの間にかそれらを抱いていたという現実。
そんな現実から逃げるかのように日本に帰国した。

しかし、アメリカで暮らしていなければ、私は人種差別を行うような人間や社会を、口先でただ批判するだけだったかもしれない。体験したから見えた"自分の姿"があったのだ。

そして日本は今、多種多様な人種が共に暮らす国へと移りつつある。この映画は決して「よその国の特別な話」ではない。

人種や階級だけではない。性別や外見、自分とは異なるあらゆるものに対し、人は無意識に差別的な感情を抱く。
「自分は違う」と、あなたは言うだろうか。
「自分は善人である。そんな感情は抱いたこともない!」と。
かつての私のように。

「おまえは自分のことがわかっているつもりか?何もわかっちゃいない」。
悪徳警官を演じるマット・ディロンが、新米の"善人警官"に吐き捨てたセリフだ。

見終わった後は、重苦しい気分に苛まれるわけではない。そこには、微かな希望が描かれている。善人にも悪しき心が無いとは言い切れないように、どんな悪人にも善い心が無いとは言い切れない。それこそが真実であると願いたい。(了) (2006.3)


村山美穂子●むらやま みほこ
映像翻訳者。2002年、日本映像翻訳アカデミー・実践コース修了。主な作品にアニメ「スポンジ・ボブ」(吹き替え)、情報番組「ビデオファッションNews」など。