発見!今週のキラリ☆

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2007年5月 アーカイブ

Vol.4 「カバーソング≠替え歌≠映像翻訳(?)」 by 石井 清猛


ポピュラーミュージックの伝統のひとつに、カバーソングがあります。アーティストの個性あふれるアダプテーション(編曲=解釈)にはオリジナルとは違う独特の魅力があるもので、誰がどんな曲をカバーしたかという話題は、常に音楽ファンの関心を集めてきました。

日本でも有名なものからマニアックなものまで、さまざまなカバーソングが歌われていますが、中でもとりわけ興味深いのは外国曲が日本語訳詩で歌われるケースです。音楽と言葉の、二重のアダプテーションですね。

そこで歌われる言葉は、当然"対訳"とは異なります。歌詞として成立させるためには、意味と同時に音節やイントネーション、響きのことを考慮しなければならないわけで、そのためには、意訳や省略、翻案が避けれられません。これってどこか少し、尺や字数の制約がある映像翻訳に通じるものがあるように思えるのですが、いかがでしょうか。

訳詞家の漣健児は、メロディと歌唱を伴う訳詞の作業は詩や小説などの文学作品の翻訳とは違い共同著作物的な意味合いを持つと考えました。その上で、"それが「詩」から「詞」への世界への「跳躍」であり、「超訳」となってオリジナルの国境線を超えて改作・翻案の世界に着陸させる手段となる"と語ります。
(http://www.shinko-music.co.jp/sazanami/cd-books.html)

何となく"映像を伴う翻訳"にも当てはまる感じがしませんか?例えば、スクリプトのベタ訳がどれほど正確で表現豊かなものであっても、それをそのまま映像に乗せることはできません。映像の世界に溶け込み、作品や番組の一部となるように加工する過程が不可欠です。つまり映像翻訳にも"跳躍"が必要とされるということです。

もちろん、同じ"跳躍"でも訳詞と映像翻訳では跳び方が異なります。訳詞の世界は改作や翻案により寛容です。内容的に"替え歌"じゃないかってくらい大幅に改作/翻案されていても"カバーソング"として受け入れられています。原曲のエッセンス=歌心が表現されていれば、細かいところは大目に見てもらえるわけです。

でも映像翻訳ではそうはいきません。
意訳のしすぎや情報の漏れは厳しいチェックを受けることになり、原文に忠実に訳すことを求められます。

"翻訳の基本とは、原語で読む人と、訳したものを読む人が、同じ情報を同じタイミングで得られるということ"(by深井講師)とするならば、映像翻訳でその基本に忠実であることは非常に困難に感じられることがあります。私なんかしょっちゅうサジを投げたくなってるクチですけどね。「だって尺が...」「字数が...」「カット替わりが...」みたいな。

そんな時は、カバーソング=替え歌のひとつでも口ずさんでみるといいかもしれません。歌心があるなら"画心"だってあるはずです。メロディと一体になって歌われる言葉は、映像翻訳が"跳躍"する翻訳であることを思い出させてくれるのではないでしょうか。それこそが映像翻訳の、キラリ☆と光る可能性なのだと思います。

最後に私の好きなカバーソングをご紹介。
忌野清志郎が1991年にHIS名義で発表した「500マイル」です。

(原曲)
If you miss the train I'm on
You will know that I am gone
You can hear the whistle blow a hundred miles
A hundred miles, a hundred miles,
A hundred miles, a hundred miles
You can hear the whistle blow a hundred miles

(訳詞)
次の汽車が駅に着いたら
この町を離れ遠く
500マイルの見知らぬ町へ
僕は出てゆく 500マイル

替え歌的なカバーも多く手がけている忌野清志郎ですが、この曲はかなり原曲に忠実な訳詞となっています。これがセリフなら、そのまま字幕してもいいくらいですね。いやあ泣ける...。
この先の詞に興味を持たれた方は、CDを聴いて確認してみてください。

皆さんの好きなカバーソングにはどんな曲がありますか?
これぞというものがあったら、ぜひ教えてください!

Vol.5 「夢と友情の交差点」 by 柳原 須美子


皆さんは夢を見ますか?私は毎晩のように見ています。
夢に感動しすぎて、疲労感とともに目を覚ますこともしばしば。しかし感動は覚えていても、肝心の内容を覚えていないことの方が圧倒的に多いのです。人はなぜ夢を忘れてしまうのでしょうか。

夢の感触は覚えているのに内容を忘れてしまうなんて、あまりにも悲しすぎる!実態のない感動に振り回されるのはもうたくさんだ!...と、フラストレーションを抱え込んでしまった私は、ある実験を試みました。"起きた瞬間に夢は忘れてしまうのか"という疑問を解消することが目的です。やり方は簡単。携帯電話を枕元に置いて床につきます。そして目が覚めたら夢の内容を誰かにメールするのです。

この実験には協力者が必要でした。メールの送信先となる人です。私は古くから付き合いのある友人Aに相談しました。すると友人Aは、この迷惑極まりない頼みごとを快く引き受けてくれました。しかもノリノリで。

果たして、起きた直後に夢を文章化することは可能なのでしょうか。

私は毎日のようにメールをしました。そう毎日。1日もかかさず。"今日見た夢は...、何だったっけ?"と内容を忘れてしまうことは1度もありませんでした。その結果、毎朝メールを送り続けることに。

友人Aは律儀にも"それは素敵な夢を見たね...""などと返事をくれました。泣けます。私の身勝手なお願いに付き合ってくれた友人Aとの"キラリ☆友情"に感謝しています。

この実験で分かったことは、"人は起きた直後なら夢を覚えている。しかし覚えておくには、ある程度の集中力が必要"ということ。起きぬけにメールをするには、相当の瞬発力が求められますからね。

友人Aには相当迷惑をかけましたが、お陰で私の疑問は解消されました。最近は、覚えておきたい夢は自分にメールするようにしています。

日常生活の中には、小さな"何故?"がたくさんあります。そんな小さな疑問たちが、ささやかな生活をそっと彩ってくれているのかもしれません。キラリ☆

Vol.6 「さらに参ぜよ三十年」 by 浅野 一郎


皆さんは"居合(いあい)"と聞いてピンときますか?
大道芸人が大根をスパッと切っている姿を思い浮かべる方もいるでしょうか...。でも、本当の居合いとは、もっと奥深いものなのです。

居合とは、戦国時代に生まれた剣術のことで、一瞬で刀を抜き、ただの一刀で敵を倒す剣技のことです。私はしばらく、居合の稽古を受けに道場に通っていました。

茶道に流派があるように、居合にも様々な流派があります。私が入門したのは「無外流」という流派でした。「無外流」とは、江戸時代に辻月丹資茂(つじげったんすけもち)が起こしたと言われ、『剣客商売』の登場人物、秋山小兵衛(こへえ)の遣う居合の流派としておなじみです。

深呼吸をし、体の中心線に沿って、ゆっくり手を刀の柄に掛ける。そして、片膝を立てながら、鞘ズレの音をさせないように静かに素早く刀を抜く。その刹那、刀身が照明の光を反射して、キラリ☆

そして型を遣った後、同じく鞘ズレの音をさせないように気を使いながら、刀の3分の1が鞘に入ったところで、今度は鞘のほうから刀を迎えにいく。さらに柄の中心が体の中心からブレないように、刀を鞘に納める。そして、倒れた敵をしばらく見つめた後、遠くの山を仰ぎ見るが如く目線を外す。

この一連の動作をいかに流麗に、力まずさばくか。居合は"静を一瞬にして動に変え、また静に戻る"武道です。外国の剣術とは異なる独自の美学を有しています。

こうした一連の型をうまく演じることができると、先生は「きれいに敵が斬れていたね」とおっしゃいます。達人のキラリ☆と光る瞳には、私の型を通じて、武士同士による真剣勝負が映っているのでしょう。

素晴らしいと思いませんか? 居合いのこだわり。どんな些細な動作にも手を抜かず、ストイックに追求する美意識。

私は優秀な映像翻訳者にも、居合いを極めた武士と同じものを感じます。1フレームのスポッティング、1文字を削ることに全精力を傾ける人―。私には、"居合道は映像翻訳に通ず"と思えてなりません。

皆さんには、居合道の座右の銘である「さらに参ぜよ三十年」という言葉を覚えてほしいと思います。
<<頂点に達したと思っても、そこで慢心してはいけない。本当の修行はそこから30年かかると思いなさい>>という意味です。
たとえばこの学校を出て10年経ち、映像翻訳の世界で"ベテラン"と呼ばれるようになったとしても、本当にこの道を極めたと言えるのは、そこから30年後だという気持ちが大切だということです。

ちなみに、居合には激しい動きこそ伴いませんが、かなりの有酸素運動なのです。最近では女性の参加者も少なくない、健康維持に効果的なスポーツであるということも、付け加えておきます。