発見!今週のキラリ☆

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Vol.4 「カバーソング≠替え歌≠映像翻訳(?)」 by 石井 清猛


ポピュラーミュージックの伝統のひとつに、カバーソングがあります。アーティストの個性あふれるアダプテーション(編曲=解釈)にはオリジナルとは違う独特の魅力があるもので、誰がどんな曲をカバーしたかという話題は、常に音楽ファンの関心を集めてきました。

日本でも有名なものからマニアックなものまで、さまざまなカバーソングが歌われていますが、中でもとりわけ興味深いのは外国曲が日本語訳詩で歌われるケースです。音楽と言葉の、二重のアダプテーションですね。

そこで歌われる言葉は、当然"対訳"とは異なります。歌詞として成立させるためには、意味と同時に音節やイントネーション、響きのことを考慮しなければならないわけで、そのためには、意訳や省略、翻案が避けれられません。これってどこか少し、尺や字数の制約がある映像翻訳に通じるものがあるように思えるのですが、いかがでしょうか。

訳詞家の漣健児は、メロディと歌唱を伴う訳詞の作業は詩や小説などの文学作品の翻訳とは違い共同著作物的な意味合いを持つと考えました。その上で、"それが「詩」から「詞」への世界への「跳躍」であり、「超訳」となってオリジナルの国境線を超えて改作・翻案の世界に着陸させる手段となる"と語ります。
(http://www.shinko-music.co.jp/sazanami/cd-books.html)

何となく"映像を伴う翻訳"にも当てはまる感じがしませんか?例えば、スクリプトのベタ訳がどれほど正確で表現豊かなものであっても、それをそのまま映像に乗せることはできません。映像の世界に溶け込み、作品や番組の一部となるように加工する過程が不可欠です。つまり映像翻訳にも"跳躍"が必要とされるということです。

もちろん、同じ"跳躍"でも訳詞と映像翻訳では跳び方が異なります。訳詞の世界は改作や翻案により寛容です。内容的に"替え歌"じゃないかってくらい大幅に改作/翻案されていても"カバーソング"として受け入れられています。原曲のエッセンス=歌心が表現されていれば、細かいところは大目に見てもらえるわけです。

でも映像翻訳ではそうはいきません。
意訳のしすぎや情報の漏れは厳しいチェックを受けることになり、原文に忠実に訳すことを求められます。

"翻訳の基本とは、原語で読む人と、訳したものを読む人が、同じ情報を同じタイミングで得られるということ"(by深井講師)とするならば、映像翻訳でその基本に忠実であることは非常に困難に感じられることがあります。私なんかしょっちゅうサジを投げたくなってるクチですけどね。「だって尺が...」「字数が...」「カット替わりが...」みたいな。

そんな時は、カバーソング=替え歌のひとつでも口ずさんでみるといいかもしれません。歌心があるなら"画心"だってあるはずです。メロディと一体になって歌われる言葉は、映像翻訳が"跳躍"する翻訳であることを思い出させてくれるのではないでしょうか。それこそが映像翻訳の、キラリ☆と光る可能性なのだと思います。

最後に私の好きなカバーソングをご紹介。
忌野清志郎が1991年にHIS名義で発表した「500マイル」です。

(原曲)
If you miss the train I'm on
You will know that I am gone
You can hear the whistle blow a hundred miles
A hundred miles, a hundred miles,
A hundred miles, a hundred miles
You can hear the whistle blow a hundred miles

(訳詞)
次の汽車が駅に着いたら
この町を離れ遠く
500マイルの見知らぬ町へ
僕は出てゆく 500マイル

替え歌的なカバーも多く手がけている忌野清志郎ですが、この曲はかなり原曲に忠実な訳詞となっています。これがセリフなら、そのまま字幕してもいいくらいですね。いやあ泣ける...。
この先の詞に興味を持たれた方は、CDを聴いて確認してみてください。

皆さんの好きなカバーソングにはどんな曲がありますか?
これぞというものがあったら、ぜひ教えてください!