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2010年3月 アーカイブ

vol.78 『ドリアンドリアン』 by 石井清猛


3月のテーマ:におい

一体何を思ったか、誕生日を迎えた娘フアンのために市場でドリアンを丸ごと1個購入してきた父親。強烈なにおいに堪えかね、鼻をつまみつつ「ケーキの方がよかった」と恨みがましく訴える母親をよそに、彼はフアンに向かって「アメリカ産の貴重な果物だから食べろ」と執拗に促すばかり...。

フルーツ・チャンが2000年に発表した『ドリアンドリアン』で描かれる、香港に不法滞在する家族が食卓を囲むこの場面は、この作品の中でも際立って切実かつユーモラスな一幕となっていて、見る者に深い印象を残します。

父親が家族に披露するドリアンについての知識は明らかに事実と異なり、甲高い声でたどたどしくまくし立てられる彼の言葉は否応なくガマの油売りの口上めいた怪しさを帯びていくわけですが、同時に、そこにはほとんど理不尽なまでに楽天的な響きが備わっていて、私たちはやがて画面が不思議なバランスの緊張感で満たされていくのに気づくでしょう。

果たしてフアンは父親の勧めにしたがって、ドリアンを口にするのでしょうか?
実際、『ドリアンドリアン』の中でドリアンに遭遇する人物たちは、ドリアンを食べる機会を等しく与えられていながらも、それぞれが様々な反応を示し、その言葉や動作をカメラに切り取られていきます。
つまり『ドリアンドリアン』の登場人物たちは、この"ハリネズミ"や"地雷"に似た威容を持ち"犬のフン"や"オシッコ"に似た異臭を放つ"果物の王様"を、食べたり食べなかったりすることで、あるいは喜んで食べたり恐る恐る食べたりすることで、フィルム上にその存在を刻みつけるのです。

映画の中盤で物語の舞台が、原色があふれかえる亜熱帯の香港から雪が舞いすべてが凍てついた黒龍江省牡丹江に移り、画面の背景となる町並みや光のコントラストが一変しても、フルーツ・チャンが人々に向ける視線は変わることがありません。
南国の熱を閉じ込めたドリアンは巧妙に北国に持ち込まれるやいなや人々の間に小さな混乱を引き起こし続け、フルーツ・チャンはそこに生まれる奇妙な緊張感を逃すことなくとらえ続けます。

『ドリアンドリアン』にドリアンがいくつ登場するのかは、興味のある方に調べていただきたいのですが、作品中のすべてのドリアンに共通して言えるのは、この果物が、"王様"の異名を取ることなど想像もできないほどの無遠慮な扱われ方をしているということです。

映画の冒頭から誰もが顔をしかめるその異臭に対して容赦ない言葉を浴びせられ、硬い凹凸は敵の襲撃に際して凶器として利用され、その強固な外皮は悪態をつかれながらナイフや鉈、ドライバーやハンマーをあてがわれ、テーブルから払い落とされ、郵便局で引き取り手を待つ間何日も放置され、揚句には部屋からはじき出された勢いで階段を転落するに至るといった具合で、まったく、"王様"の威厳などあったものではない。

それでもフルーツ・チャンがこのドリアンと呼ばれる果物、外見もにおいもあまりにシュールでほとんど笑うしかないほど現実離れしているフルーツ=fruitに、たまらなく魅了されていると思えるのは、単なる気のせいではないでしょう。

『ドリアンドリアン』の中でドリアンは、まさに"荒唐無稽な異物"としか言いようのない存在として描かれています。
私たちは誰でも、人生のあらゆる場面において突然、"荒唐無稽さ"に出会う可能性があることを知っているにもかかわらず、本当に荒唐無稽な何かに出会った時には、ただひたすら動揺するほかありません。そしてフルーツ・チャンにとっては、そのような動揺の瞬間こそがリアルであり、映画的だったのではないでしょうか。

思えば『ドリアンドリアン』で最初にドリアンを食べるのは、牡丹江から出稼ぎにやってきたコールガールの護衛を命じられた不良少年でした。
彼はある経緯から道端に転がっているドリアンを見つけると、ためらいなくそれを真っ二つに割り、中から取り出した実を無造作に口に運びます。

少年がドリアンをどのように食べ、どのような動揺を見せたかは、ぜひ皆さんにご自分で確かめていただきたいと思います。
このシーンで彼が画面に刻みつけた視線と動作に、きっと誰もが目を奪われるはずです。
そしてそこにはフルーツ・チャンの動揺も同時に刻みつけられているということを、誰もが納得するはずです。

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『ドリアンドリアン』
監督・脚本:フルーツ・チャン
製作:ドリス・ヤン
撮影:ラム・ワイチューン
出演:チン・ハイルー、マク・ワイファン、ウォン・ミン、ヤン・メイカム、
ユン・ワイイー、ヤン・シャオリー、バイ・シャオミンほか
製作国:香港
製作年:2000年
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vol.79 『アイ・アム・サム』 by 藤田庸司


3月のテーマ:におい

CGを駆使した壮大なスケールの映画も楽しいが、レンタルDVDショップなどに出向くと、ともすれば"人間臭い"、"人間の臭いのする"ドラマ系作品に手が伸びてしまう。人間臭さと言っても抽象的で分かりづらいかもしれない。僕が思うところの人間臭い映画とは、人の強さや弱さ、醜さ、優しさ、うぬぼれなどを包み隠さず描いた作品である。人間は一人では生きていけない弱い生き物。だが、その弱い生き物が一生懸命に生きる姿は美しく、見る者に勇気を与えてくれる。今日はそんな1本を紹介したい。

『アイ・アム・サム』

知的障害のために7歳児程度の知能しか持たない父親サム(ショーン・ペン)は、コーヒーショップで働きながら一人娘のルーシー(ダコタ・ファニング)を育てていた。ルーシーの母親は、ルーシーを生むとすぐに蒸発してしまったが、二人はサムの友人をはじめ、理解ある人々に囲まれ幸せに暮らしていた。しかし、ルーシーが7歳になる頃、その知能が父親を超えようとする。ある日、サムは家庭訪問に来たソーシャルワーカーによって養育能力なしと判断され、ルーシーを無理やり里親の元へ出されてしまう。何としてもルーシーを取り戻したいサムは、敏腕で知られる女性弁護士リタ(ミシェル・ファイファー)の元を訪ねルーシー奪還を図るが、サムにリタを雇うお金などなく、あっさり断られてしまう。それでもあきらめないサム。やがて彼の愛娘への思いがリタの心を動かしていく。

本作の登場人物たちは、個々に様々な悩みや問題を背負って生きている。貧しいうえ障害を抱えているサム。裕福で社会的にも地位を認められていて、誰もがうらやむ暮らしをしているリタ。父の障害と自分の成長の狭間でもがき苦しむルーシー。一見、幸せであろう人が実は不幸せだったり、かわいそうに思える人が実は幸せだったり、最も無力のはずの子供が一番強かったり、「人間の幸せって、一体なんだろう?」と考えさせられる。誰も不幸になんてなりたくない。幸せになりたいし、成功したいし、認められたい。そのために努力するが、そこには絶えず挫折や劣等感が付きまとう。時として、ノックアウトされたときの絶望感や、羞恥心と戦わなければならない。弱い中にも強さが必要なのだ。かく言う僕も、自分の不十分な努力を棚に上げ"才能がない"と落ち込んでみたり、"あの人はいいな〜"と他人の人生をうらやんだりしてしまう弱い人間である。自分の存在がどうしようもなく"ちっぽけ"と感じたり、"もうダメだ"と思った時、この作品を見ると、いつも救われる気がする。"弱くていいじゃん。だって人間なんだから"と。

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『アイ・アム・サム』
監督:ジェシー・ネルソン
脚本:クリスティン・ジョンソン
製作総指揮:マイケル・デ・ルカ
撮影:エリオット・デイヴィス
出演:ショーン・ペン、ミシェル・ファイファー、
   ダコタ・ファニング
製作国:アメリカ
製作年:2001年
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