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2009年8月 アーカイブ

vol.63 「海」 by 浅川奈美


8月のテーマ:海

海が好きだ。
思い立った時にふらっと出かけて行き、海辺に座ってただ何時間も過ごす。そんな時間が好きだ。自分の身の丈を知ることが出来る場所。リセットできる場所。
うんと昔から変わらずそこにあり続ける。もう長い間、波は寄せて返して...。ずっと繰り返している。
私が生まれる前から。この先もずっとずっと。
時間に追われ、雑事に埋もれ、目の前のことに忙殺され、軸がぶれたと感じる時、水平線の向こうまで広がる海の前に立つと、スッと背筋を矯正されるような気がするのだ。

海に囲まれた国に生まれ、子供の頃から身近にあり続ける海。大好きなのに近寄りがたい、強烈な畏怖の念を起こさせるものがある。
いまや世界中の人と瞬時にやり取りが出来るテクノロジーを持つ人類。研究者達は日々未知なる世界を次々と解き明かしている。
でも、海についていえば、人間が知りえてきたものなんて、まだまだ米粒ほどのものなのかもしれない。

津波。ほんの少し前もってその発生を察知できるようになったとはいえ、ジワジワと沖から陸に向かう巨大な波に対しては、海辺からなるべく離れる、ということ以外、我々には対処の術がない。まるで「怒り」という意思が宿ったかのように巨大化した波は陸に襲い掛かるのだ。陸地は完全マイノリティとなり大概いいようにやられてしまう。

いまだ人の手が届いていない謎の数々。
ムー大陸やアトランティスの遺跡、はたまた大航海時代の財宝...。「科学は飛躍的に進歩した」と息巻いている人間を嘲笑うように、いまだ海底に眠り続けるかもしれない。小手先の知識などまるで歯が立たないほどの懐の深さを見せる、なんともいえない絶対的な海の魅力。たまらない。

海にまつわるストーリーはこの世に数多く存在する。口頭伝承で語り継がれてきた民話から巨額の費用を投じて製作されたメジャー映画まで数え切れない。
何せ地球の表面の70.6%を占め、その広さ、3億6000万k㎡。「太平洋」やら「地中海」だとか、人間が勝手に固有名詞をつけているものの、海はひとつ。全部繋がっている。大きな意味では人類全員島国出身なのだ。そりゃ、お話も多いはずである。

子供の頃TVで観たある作品が強烈に残っている。
「第14話 月夜に浮かぶ幻の街」(『ニルスのふしぎな旅』より)
スウェーデン南部の農家の子ニルス。わがままで動物ばかりいじめる悪ガキはある日、怒った妖精に手のひらサイズの小人に変えられてしまう。小さくなったニルスはガチョウのモルテンの背中に乗り、ガンの群れと冒険の旅に出ることになる。動物達との友情をはぐくみながら助け合う心を学んでいく物語。スウェーデンの女流作家セルマ・ラーゲルレーヴ(Selma Lagerlöf)が、1906年に執筆した子供向け物語を NHKがアニメ化。1980年1月から放映された。全52話。
ある街に、ニルスはやってきた。
その昔、神の怒りに触れ海に沈められてしまった街・ビネタ。ただ100年に一度、たった1時間だけ浮上することができ、その間に訪れた誰かが、何か買い物をして喜んでくれたら、街は再び地上の世界に戻れる。街で出会った少年・ペテロから街の悲劇を聞いたニルス。海岸に落ちていた銅貨を思い出して、それで買い物をして街を救おうと懸命に走って戻るのだが...・...。

タイム・アウト。
ニルスの目の前でビネタの街は再び海底へと沈んでいくのだった......・。

「あ、あぁぁ......」
この瞬間、子供だった私の胸に沸き起こった感情をいまだに忘れることが出来ない。
次のチャンスは100年後。確実に自分世代でないことは確かなのだ。どんなに努力しても自分の力ではもはやどうにもこうにもならない状況。
「諦めないで信じて頑張れば、なんとかなるものさ!」などといった子供向けテーマとは、正反対。
世の中には、こんなこともあるのだ。という剛速球をぶち込まれた衝撃である。
一度失われた信頼を再び勝ち取るには並々ならぬ努力と忍耐が必要なのだ、と。ビネタの民を見よ、と。

海に対して人類がしてきたことへの罰。100年に一度のチャンスも与えられないくらいの怒りに触れてしまってはいないか...。そんなことを考えたりもする。
この物語は、少女時代から今日に至るまで、私の心に非常に深く刻まれたのだった。

ビネタの街。あとどれぐらい経ったら、浮上することが出来るのだろうか。

vol.64 「海へ行くつもりじゃなかったのは誰だ?」 by 石井清猛


8月のテーマ:海

ふと考えてみてこれまで一度も1人で海へ出かけたためしがないことに思い当たり、"いくら何でもそれはないだろう"と、遠のく過去を改めて辿ってはみたものの、やはり思い出すのは誰かと連れだって海辺へと赴いた記憶ばかり...。

確かに父親に連れられて磯釣りに出かけた日も、町内会の行事で海水浴に行った日も、クラスメートとフェリーで島に渡りキャンプをした日も、地元の友達と県境の港町まで自転車をこいだ日も、彼女とスキューバタンクを背負って浜辺を歩いた日も、同僚とサーフィンをして波にもまれた日も、いつも誰かと一緒でした。

瀬戸内海に面した街に生まれ、幸いなことに水恐怖症とも無縁に育ち、海の美しさや楽しさを知る機会にもそれなりに恵まれてきたはずなのですが、どうやら私はこれまで、居ても立ってもいられなくなってにしろ、何となく思い立ってにしろ、1人で海へ向かわなければならなかった場面には出くわさなかったようです。

そのくせというかその代わりにというか、海でない場所にいる時、ぼんやり思い浮かべる海には大抵、人の影がありません。
少し強めの風が吹き、中くらいに荒れたその海は恐らく冬で、その白黒の光景を私は砂浜の奥まった所にある草地から眺めています。

実際、こうして思い出すのは久しぶりなのですが、たぶんあれは映画で見たいろんな海が混ざり合ってできた光景なのでしょう。
だから思い浮かべる時はいつも一緒に、キム・ノヴァクのしゃべるセリフが(日本語で)ナレーションのように流れていたのだと思います。
"迷うのはいつも1人。2人には必ず行く先があるの"

ひと気のない海辺にはどことなく冥府の入り口を思わせる不吉さが漂っていて、太陽の光が差し込む波間には生命の源そのものの輝きが感じられる。海にそんな相反する2つの顔があるとして、一度だけその両方を同時に発見した気にさせられたことがあります。

中学時代に友達と島でキャンプをした時のこと。今となってはあれが能美島だったか江田島だったか、あるいは似島だったかすら判然としないのですが、確か岸には座礁した廃船が放置されていました。

夜になって私たちは海岸に向かいました。誰かが着ている物をすべて脱ぎ捨て全裸で海に入り、全員がそれに続きます。
素っ裸の体の表面を海水がすり抜ける感触があまりに気持ちよく、ほとんど躁状態の子猿の集団のようにはしゃぐ私たち。一方で、足元に横たわる海底の暗闇に引きずり込まれる不安は片時も頭を離れませんでした。

そして恐怖と興奮がごちゃ混ぜになったまま、若干ヤケ気味に潜水した時、私たちは海中でお互いの体が緑色の光に包まれているのを見たのです。
海水を掻く私たちの手足の動きに刺激を受け、夜光虫が発光したせいでした。

海面に浮かぶ私たちをぼんやりと照らす緑色の光は、原因がプランクトンだと知っていてもなおこの世のものとは思えず、気が遠くなるほど美しく、妖しい輝きを放っていました。
そして私たちはその光を絶やさぬよう、息が切れるまで、ただひたすら水掻きを続けたのです。