発見!今週のキラリ☆

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2009年4月 アーカイブ

vol.54 「花は桜木」 by 浅川奈美


4月のテーマ:花

先月末の思いがけない寒さのせいで、桜も牛歩戦術。
サクラ大好きな私にとって、ヤキモキ度数のハリもいい加減ふり切れていたが、ようやく、今週末、青空に映える淡いピンク色の景色が楽しめそうである。

新しい靴のにおい、まだしっくり来ない制服の窮屈さ。その胸いっぱいにあるドキドキとワクワク。出会い、別れ。はじまり...。苦しくなるような、あったかくなるようなそれぞれの思い。
ほかの季節の草木とは違った、独特の感情を呼び覚ます桜。桜をみて思うこと、それはこの国に生まれ育った人が感じることのできる、ある種のステキな共感覚のようだ。

桜舞い散る中、新学期、新年度がスタート、ということがこの国に定着するよりもずっとずっと昔から、桜は日本人のココロになじみが深かった。

四季折々の風景を有する日本において、天地自然の美しい景色を称して「花鳥風月」がある。
そして平安以降、「花」とは桜のことをさしていた。
古の歌人たちは、桜にさまざまな思いを載せて詠みあげた。
もののあわれ、恋心、美しきもの、はかなきもの...
これらを表現するにはもってこいのアイテムということで桜は人気ともども不動の地位を確立。
ちなみに私が一番大好きな歌は、というか小学校で丸暗記した百人一首を含め、ダントツ覚えているものがコレ
(あとはビミョウ)。

世の中に 
たえて櫻の なかりせば 
春の心は のどけからまし

ありひらぁーーー(TдT)
いいコトいうよ、あなた。
いくら俳句や、短歌が英語圏で流行ってきたとしても、残念ながら、及ばないでしょ。
花鳥風月のボキャを駆使して詠われるものは、使われる語句の幅、そしてその一語に込めるモノに、なんせ年季はいってますから。


そして室町時代には一休さんがこんな有名な言葉を残す。

「花は桜木。人は武士」
(柱は檜 魚は鯛 小袖はもみじ 花はみよしの と続く)

花だったらこれ、人だったらこれ、と1位と思っているものをあげていったようだ。
桜は散り際が美しいもの、武士もまた死に際が潔いもの、
つまりは散り際が潔く美しいものが良いという意味。

まさに、まさに、これは日本人の美徳とされる精神である。
そしていまや、日本人よりも外国人の間で読まれているのではないかという新渡戸稲造が著した『武士道』(明治時代)の冒頭には、こうある。

「武士道とは日本の象徴たる桜の花のようなもの」

武士道=桜
と新渡戸さんは、言いきってるわけだし。
自分では気づかないうちに、この価値観は育まれているのだ。
もはや、日本人として桜を無視しては生きて生けない...そんな気すらしてきた。(笑)

美しいビジュアルのみならず、食用、染めものと、
日本人の生活にとって、またいい仕事をしてきた桜。
塩漬けの桜をさっと湯で戻しいただく桜茶は、香り、見た目の華やかさと、最上の特別感を醸し出し、
桜色の染色に用いるのは、"樹皮"なんてところは、にくいほど謙虚で粋な仕事っぷりだ。

桜は、日本人に生まれてほんとにヨカッタって私に思わせてくれる、大事な花である。

今朝、ガイドブックを抱えた欧米人集団(30名くらい)が、山手線に乗り込んできた。
髪の色、服装、その様子たるや完全に行き先は「秋葉原ぁ~」。
確かにそこは、ある種の旬にあふれていて、そして「サクラ大戦」もあるけれども...。

でもさ、帰りはさ、千鳥ヶ淵(※)にでもよってさ
サクラを見ようよ、ニッポンのサクラをさ。

※東西線・半蔵門線・都営新宿線九段下駅から徒歩約5分

vol.55 「ならばその理由は"ソン(モ)イマージュ"=音(言葉)映像で」 by 石井清猛


4月のテーマ:花

ちょうど花を描く画家のように、また山を登る登山家のように、映像に翻訳をつける理由を「そこに映像があるから」と言い切れたなら、あるいは私たちは今よりいくらかでも元気になれるのでしょうか。引き受けた仕事や、出された課題をより楽しみ、より良い原稿を目指して目の前の作業にさらに没頭できるのでしょうか。

別に今が元気じゃないと言いたいわけではないですよ。念のため(笑)。
ただ映像翻訳にかかわっていく中で、気持ちがヘコんだり、挫けそうになったりすることも決して
珍しくはなく、どちらかと言うとそういった苦境に割とたやすく陥りがちな私などにとっては、何かと"理由"が、窮地を逃れるための拠り所が、必要だったりするわけです。

そこで例えばどこかから"No ***, no life."みたいな言い回しを見つけてきて、「映像がなければ
生きる意味がない」と言い切ってみるとどうでしょう。
確かにそこには「これに限ってはどこの誰にも文句は言わせない」的な、ほどよい強度を持った
自己完結性があり、仮に私の、DVD漬けでTV呆けで映画三昧の生活を正当化するには十分
かもしれません。
でもそれだけではただ「花が好き」、「山が好き」と宣言したのと同じで、描いたり登ったりといった
具体的な行為に、つまり映像翻訳に、必ずしも結びつきませんね。

そうなると私たちが映像に翻訳をつけ続ける本当の根っこにある理由は、単なる「好き」とは別のところにあるのではないかと想像したくなるのですが、いかがでしょうか。
きっとその理由は一人ひとりで違っていて、ある人は何かに突き動かされるように、またある人は別の何かと折り合いをつけるように、それぞれのやり方で映像翻訳の世界に身を置いているのでしょう。

ただ困ってしまうのは、その"何か"が、個人の能力や経歴や体面とは恐らく一切関係がなく、ひょっとすると意思や生活からさえ切り離されているような、得体の知れない、ちょっとミステリアスなものなのかもしれないという気がすることです。

確かピアノの前に座って語るあの女性が収まっていたのはミディアムショットの画面。
やがて彼女の声に合わせて、自分で作った訳文が、自分で決めたタイミングで、映像と一緒に流れるのを見た時、私は字幕を通してその映像と物理的につながったような感覚に包まれた...。

こうして何年も前の個人的な仕事の思い出をたどってみても、そしてたとえそれが私にとっての
"何か"であったとしても、やはり私は未だにその体験を名付けることも、説明することもできない
ままなのです。

そこで私はゴダールの言葉を借りることにしました。
自由であろうとする人間のまぶしさや美しさ、軽さや怖ろしさ、苦々しさや滑稽さ、そして強さが
ちりばめられたその作品群によって映画史に名を刻む監督ジャン=リュック・ゴダールが、1970年代初頭に発明した"ソニマージュ"という言葉です。

詳しいゴダールの意図はよく分からないので皆さんには別途、調べていただきたいのですが(笑)、いずれにしてもson+image=sonimageという仕組みがこの上なく素晴らしい。
真ん中にmotsを挟めば、son+mots+image=son(mots)imageとなって、つまりこれは"音(言葉)映像"で、まさに映像翻訳そのものです。

この"ソン(モ)イマージュ"が"ソニマージュ"のように1語にならないのは、映像翻訳の場合、
作品に内部化された言葉とは別に、翻訳された言葉が加えられるという事情が必然的に
反映されていると考えられます。
そしてこのように音と映像に挟まれたカッコの中に言葉を入れた時、そのカッコは映像翻訳をめぐる制約を表すと同時に、私と"ソニマージュ"=音+映像がつながることのできる確かな場所
をも示しているのではないでしょうか。

今向き合っている映像にふさわしい、最高の翻訳をつけられる人は、ひょっとしたら自分ではない
かもしれない。そんな不安を覚えた経験は誰にでもあるはずで、それはある程度まで真実である
と言えます。
でも一方で、日々新しく生み出され私たちの元に届けられる、目の前の"この映像"に出会う瞬間は一度だけです。だとすれば、その映像に最高の翻訳をつけられるのはこの世で自分だけかもしれない、とほのかに湧き起こる予感もまた、同じ程度に真実なのです。

そんな時、「そこに花があるから」と描き始める画家のように仕事に取りかかることができたらどんなにステキだろうと、映像翻訳者の妄想は今日も膨らむばかりです。