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vol.55 「ならばその理由は"ソン(モ)イマージュ"=音(言葉)映像で」 by 石井清猛


4月のテーマ:花

ちょうど花を描く画家のように、また山を登る登山家のように、映像に翻訳をつける理由を「そこに映像があるから」と言い切れたなら、あるいは私たちは今よりいくらかでも元気になれるのでしょうか。引き受けた仕事や、出された課題をより楽しみ、より良い原稿を目指して目の前の作業にさらに没頭できるのでしょうか。

別に今が元気じゃないと言いたいわけではないですよ。念のため(笑)。
ただ映像翻訳にかかわっていく中で、気持ちがヘコんだり、挫けそうになったりすることも決して
珍しくはなく、どちらかと言うとそういった苦境に割とたやすく陥りがちな私などにとっては、何かと"理由"が、窮地を逃れるための拠り所が、必要だったりするわけです。

そこで例えばどこかから"No ***, no life."みたいな言い回しを見つけてきて、「映像がなければ
生きる意味がない」と言い切ってみるとどうでしょう。
確かにそこには「これに限ってはどこの誰にも文句は言わせない」的な、ほどよい強度を持った
自己完結性があり、仮に私の、DVD漬けでTV呆けで映画三昧の生活を正当化するには十分
かもしれません。
でもそれだけではただ「花が好き」、「山が好き」と宣言したのと同じで、描いたり登ったりといった
具体的な行為に、つまり映像翻訳に、必ずしも結びつきませんね。

そうなると私たちが映像に翻訳をつけ続ける本当の根っこにある理由は、単なる「好き」とは別のところにあるのではないかと想像したくなるのですが、いかがでしょうか。
きっとその理由は一人ひとりで違っていて、ある人は何かに突き動かされるように、またある人は別の何かと折り合いをつけるように、それぞれのやり方で映像翻訳の世界に身を置いているのでしょう。

ただ困ってしまうのは、その"何か"が、個人の能力や経歴や体面とは恐らく一切関係がなく、ひょっとすると意思や生活からさえ切り離されているような、得体の知れない、ちょっとミステリアスなものなのかもしれないという気がすることです。

確かピアノの前に座って語るあの女性が収まっていたのはミディアムショットの画面。
やがて彼女の声に合わせて、自分で作った訳文が、自分で決めたタイミングで、映像と一緒に流れるのを見た時、私は字幕を通してその映像と物理的につながったような感覚に包まれた...。

こうして何年も前の個人的な仕事の思い出をたどってみても、そしてたとえそれが私にとっての
"何か"であったとしても、やはり私は未だにその体験を名付けることも、説明することもできない
ままなのです。

そこで私はゴダールの言葉を借りることにしました。
自由であろうとする人間のまぶしさや美しさ、軽さや怖ろしさ、苦々しさや滑稽さ、そして強さが
ちりばめられたその作品群によって映画史に名を刻む監督ジャン=リュック・ゴダールが、1970年代初頭に発明した"ソニマージュ"という言葉です。

詳しいゴダールの意図はよく分からないので皆さんには別途、調べていただきたいのですが(笑)、いずれにしてもson+image=sonimageという仕組みがこの上なく素晴らしい。
真ん中にmotsを挟めば、son+mots+image=son(mots)imageとなって、つまりこれは"音(言葉)映像"で、まさに映像翻訳そのものです。

この"ソン(モ)イマージュ"が"ソニマージュ"のように1語にならないのは、映像翻訳の場合、
作品に内部化された言葉とは別に、翻訳された言葉が加えられるという事情が必然的に
反映されていると考えられます。
そしてこのように音と映像に挟まれたカッコの中に言葉を入れた時、そのカッコは映像翻訳をめぐる制約を表すと同時に、私と"ソニマージュ"=音+映像がつながることのできる確かな場所
をも示しているのではないでしょうか。

今向き合っている映像にふさわしい、最高の翻訳をつけられる人は、ひょっとしたら自分ではない
かもしれない。そんな不安を覚えた経験は誰にでもあるはずで、それはある程度まで真実である
と言えます。
でも一方で、日々新しく生み出され私たちの元に届けられる、目の前の"この映像"に出会う瞬間は一度だけです。だとすれば、その映像に最高の翻訳をつけられるのはこの世で自分だけかもしれない、とほのかに湧き起こる予感もまた、同じ程度に真実なのです。

そんな時、「そこに花があるから」と描き始める画家のように仕事に取りかかることができたらどんなにステキだろうと、映像翻訳者の妄想は今日も膨らむばかりです。