発見!今週のキラリ☆

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2010年1月 アーカイブ

vol.73 「映像翻訳者は未知の河を渡る」 by 石井清猛


1月のテーマ:未知

大晦日のカウントダウンの針が"ゼロ"を打つ瞬間に私たちの胸に沸き起こる感慨はそれこそ千差万別でしょう。明るいものから暗いものまで、軽いものから重いものまで、明晰なものから混乱したものまで様々だと思うのですが、1つ共通しているのは、それら有形無形の感慨が、どれも皆やがて祈りに似た何かに変わっていくということです。

新しい年を迎える時、たとえ拝んだり跪いたりしなくても、私たちは大抵いつも祈るような気持ちで、これから目の前にゆっくりと姿を現そうとしている未知なる時間=(1年分の)未来に思いを馳せている気がします。

何しろ仕事で忙しくて祈るなんて悠長なことは言ってられなかった、という皆さんもいらっしゃることを、もちろん忘れてるわけではありません。
特にそれが私たちの方でお願いしたお仕事のためであればなおのこと。無視するなんてできるわけがないではありませんか!
なので、ここでお話ししているのはあくまで一般論であることをご了承ください...。

さて、徐々にその姿を現しつつあるとは言え、やはり「一瞬先は闇」なのが未来というもの。そこには最も精密な統計データをもってしても分類することも理解することもかなわない不透明な部分が横たわっていて、いつまでも決して解消されることはありません。
となれば忙しい人も忙しくない人も、持つ人も持たざる人も、うまくやっている人もしくじっている人も、西洋の人も東洋の人も、結局、誰もが祈るのもそこそこに、目の前の暗闇の中へ飛び込んでいくしかないというのが、苦くとも否定しがたい現実なのではないでしょうか。

つまり"深くて暗い川がある"のは何も男と女の間に限ったことではないということです。未来と現在の間、そして未知と既知の間にも同じように深くて暗くて急な川が流れている。
そして今を生きる私たちは、一人残らず、それぞれのやり方でその川を渡っているわけです。それがどんな川だったのか、清流だったのか泥水だったのか、あるいは何本渡ったのかすら判然としないまま、夕べも今日も今この瞬間も。

「無知の知」という言葉があって、これは"私は何も知らないということを知っている"という、謙虚な姿勢とも詭弁ともつかない(笑)ある種の宣言なのですが、自分が渡った川のことをよく知らないという私たちの状況は、どちらかというと、"私は知っているということを知らない"というものに近い気がします。

だから私は、これまでに自分が渡ってきたはずのそれらの無数の川のことを思い出したくてたまりません。
見たはずなのに知らない映像のことを、聴いたはずなのに知らない音楽のことを、読んだはずなのに知らない言葉のことを、会ったはずなのに知らない人のことを、私は思い出さなくてはならない。

何だそんなことか、中学生じゃあるまいし。と思われる向きもあるでしょうが、言ってみればこれが私の新年の祈りです。
そして私にとっての映像翻訳とは、毎日の仕事の中でそんな自分の小さな"祈り"と向き合うための場に他なりません。

例えばいかにもシンプルでありふれた単語を訳出するだけなのに、ひとたびそれが具体的な映像と音声を伴った瞬間、私たちは一気に暗闇=川の中へ放り込まれてしまいます。
単語が特定の文脈の中で不透明性を帯び、翻訳者は言葉に詰まって適切な訳語を求めてさまようという事態に直面するわけです。

その時、目の前の深くて暗い川を渡り切るために新しく知らなければならないことがあったとするなら、その1つひとつは、きっと、かつて自分が渡った川のことを思い出すヒントにもなっている気がするのです。

中学校時代に英語の授業で「アンネの日記」を読んだ時、"longing"という言葉に初めて出会い、その訳語に違和感を感じたことを今もよく覚えています。
もちろん、自然な日本語の流れとかワードチョイスに問題があったといった理由からではなく、単に"long=長い"という初歩の単語と同じ綴りのくせに複雑で高尚な概念を表すことができるのは解せないといった程度のレベルの低い違和感だったのですが(笑)、今でも、あの違和感にはある種の愛着があることは確かです。

あの日記の中でアンネ・フランクが"long"していたのは、自由であり平和であり人との出会いでした。
それはまさに彼女の祈りそのものと言えます。
果たしてそんな単語を、辞書どおりに"焦がれる"とか"切に願う"とか"憧れる"といった言葉をあてることで十分に訳出できていたのか、今でもたまに考えることがあるのです。
本当にたまに、ですけどね。

vol.74 「未知の自分を信じて」 by 藤田庸司


1月のテーマ:未知

元々MTCスタッフ1名で担当していたOJTだが、去年の暮れから4人体制となり、僕も4分の1を担うこととなった。トライアルに合格しプロデビューを目前に控えた翻訳者さんたちとやり取りしていると、彼らからは、あたかも花が開花する直前のような勢いや情熱が感じられ、こちらも身の引き締まる思いがする。その情熱と培った技術で、今後の映像翻訳業界をグイグイ引っ張っていってほしい。

一方、トライアル合格に今一歩届かない方から、未来に対する不安や勉強に関する悩みを相談されることも多い。悩みの多くが「自分の力が伸びているのかどうか分からない」、「何度もトライアルを受けているが、どうしても受からない」、「自分は他のみんなと比べて、何が欠けているのか知りたい」といった内容だ。それらに個々のライフスタイルや、将来の展望などがからむと、悩みは実に様々だ。

しかし、多種多様な悩みの中にも決まって感じられることがある。それは"焦り"だ。ほとんどの人が「とにかく早く仕事を!!」、「とにかく早くトライアル合格を!!」と口にする。僕も受講生だった頃、「この先どうなるのかな...」といった不安を何度も感じたことがあるので、はやる気持ちは痛いほど分かるが、そういう時こそ"冷静に"自身の力を分析してほしい。周囲を気にするのではなく自分の内面に目を向け、講義や面談で何度となく繰り返し言われる映像翻訳者に必要な基礎力がきちんと備わっているかを、まず見直してほしい。以下に3つの見直しポイントをあげる。

まずは翻訳の基盤となる英語力。
受講中はさておき、プロの映像翻訳者としてやっていくには、TOEICスコア860点は必要とされている。もちろん、700点でも、800点でも翻訳はできるが、英語力の低さは、訳出スピードに影響及ぼすうえ、解釈ミスや誤訳の原因となる。逆に英語力が上がり訳出スピードが上がれば、生まれた余裕を日本語表現の練り直しや調べ物へ当てられるなど、俄然有利となる。英語力はあるに越したことはない。現在860点ならば、900点、900点ならば950点と、常に上を目指して努力したい。

2つ目は日本語表現力。
よく「どうすれば日本語が上手になりますか?」という相談を受けるが、僕は決まって「日本語を読んでますか?書いてますか?」と返す。「日本語が上手くなりたいな~」と思うだけでは上手くならない。思う前にとにかく読んだり、書いたりすること。ただし本を読むにしても、読んで"楽しかった"で終わるのではなく、感想文を書いたり、うまい表現があればそれを使用して日記を書いたりしよう。とあるプロ翻訳者さんは、修行と称して放送されるドキュメンタリー番組の字幕を写経すると言っていた。自分の文章が正しいかどうか分からない場合は、人に読んでもらうのもいい。受講生ならば、クラスメートとの原稿の交換は効果的だ。

最後にリサーチ力(調べ物)。
特に映像翻訳では、スクリプトにない重要な情報が映像や番組テーマの文化的背景に込められていることが多いので、誤訳や解釈ミス防止のためにも素材に関する徹底的なリサーチが必要だ。ただし、闇雲に調べればいいというわけではない。リサーチに時間を費やすあまり、訳出作業に当てる時間がなくなっては本末転倒。必要な情報を最小限の時間で入手する方法を身につけたい。

MTCトライアルでは、上記のうちどれか一つが欠けても合格できないように設定されている。合格に至らない人は、いずれかが弱いわけで、自分のウィークポイントを洗い出し改善しなければ、何度トライアルを受けても同じ結果を繰り返すだけである。また、もののはずみで合格しても、その後のOJTで苦労したり、プロとして仕事をするようになっても、いい仕事が出来ず、受注量を減らさざるを得なくなる。結局は未知の自分を信じて焦る気持ちを抑え、地道に基本スキルを磨くことが、自身のレベルを上げる一番の近道となるのだ。

MTCは今年も、一人でも多くの方の夢を叶えるべく全力を尽くす所存です。
みなさんにとって飛躍の年となりますよう、今年も共にがんばりましょう!