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「旬」な映画コラム アーカイブ

      

『ブーリン家の姉妹』 by バートン四宮恵子(2005年4月期実践コース修了 )

真摯なCostume Playを堪能


悪名高きヘンリー8世に愛された姉妹の対象的な生き方が、時代考証の安定した舞台装置の中で、それぞれの人物が生き生きと躍動し、大変満足度の高い観賞となりました。
ヘンリー8世でさえもそれなりに人間として理解できるのは、チャドウィック監督の脚本選びと撮影が素晴らしい為でしょうか。また、どの俳優も持ち場を生かし、人物描写に無理がなく、権力欲の権化のようなテューダー王朝の現実が今の時代でもありえないことではないと思わせられました。
個人的にはスカーレット・ヨハンセンのメアリーがより画面にしっくりくる印象を受けました。ナタリー・ポートマンはどうしてもアメリカの現代っ子という感じが拭えず、最後まで違和感が消えませんでした。
ただどの場面をとっても絵になっていて、衣装も豪華絢爛、イギリスの古城、自然がただただ美しく目を楽しませてくれたことはいくら強調しても足りないほど。
アンの処刑後、メアリーがアンの女の子エリザベスを育て、田舎で彼女を愛した若者と暮らした結末にはほっとしました。そしてその若者が私が『美しすぎる母』で惚れ込んだ若手舞台俳優出のエディ・レッドメインとは嬉しい配役でした。
以前に『エリザベス:ゴールデンエイジ』を観ていたので、で、エリザベス1世が一生独身だったのも納得という感じです。歴史がとても身近に、人間の今も変わらぬ「性(さが)」がぐっと胸にこたえる映画でした。
また、こういう映画で世界の歴史を身近に学びたいです。

      

『ブーリン家の姉妹』by 林忠昌(2007年10月期実践コース修了生)

愛が歴史を作った?


『ブーリン家の姉妹』この映画を紹介しようとすると、『ブーリン家の姉妹』は...、と思わず口ごもってしまう。それほど語り難く、一筋縄ではいかない作品である。
16世紀のイングランドの宮廷を舞台に繰り広げられる王(ヘンリー8世)と新興貴族ブーリン家の2人の姉妹、そして周りの人物たちによる愛憎劇がストーリーの1つのテーマだが、背景として、イングランドのローマ教会との断絶や他の欧州諸国(スペイン、フランス)との関係などにも触れており、歴史物としても十分に楽しめる。
公式ホームページを見ると「世界を変えた華麗で激しい愛の物語」とあるが、そこで繰り広げられる人間模様は目まぐるしくも生々しい。
新興貴族であるブーリン家が台頭していくための戦略として、宮廷に愛人として送り込まれた同家姉妹のアンとメアリー。最初に妹のメアリーがイングランド王ヘンリー8世の寵愛を受ける一方、姉のアンは許婚者がいる男性との"不適切な関係"(当時は重大な罪とされた)の表面化を避けるため、フランスへ極秘追放される。
メアリーは王の子を身ごもり、男子を出産するも妊娠を機に王の彼女への訪問回数は減りがちに。そんな折、アンが帰国し、王の気持ちは彼女に傾く。そして姉妹間の確執が始まり、アンは王の寵愛を妹から勝ち取ったのをいいことに王妃の座につくという野心を抱く。
野心の実現のためには、その当時王妃だったキャサリン(ヘンリー8世の最初の妻でスペインから嫁いだ)を排除しなければならない。この目的を達成するためアンは邁進するのだが、彼女の根本にある行動原理は"王から真の愛を得たい"という想いではなかっただろうか。
彼女は「権力や地位の伴わない愛など無意味である」というセリフによって、妹メアリーの王への純愛との違いを鮮明にしてはいるものの、これも彼女なりの真剣な愛し方であった、と捉えることもできる。
こうしたアンの"愛"が結果的にイングランドのローマ・カトリック教会との決別、そして王のイングランド国教会のトップ就任(すなわち政教一致)という歴史の大波をもたらすのである。
この映画は鑑賞後に深い余韻を残すことは言うまでもなく、"イングランドの歴史"というさらに広大な、奥の深い、興味深い世界への道案内の役を果たしてくれる。

      

『プラネット・テラー in グラインドハウス』by 鈴木純一(2006年4月期実践コース修了生)

炎の映画監督、ロバート・ロドリゲス


ロバート・ロドリゲスは器用な監督だ。犯罪映画がホラー的な展開を見せる「フロム・ダスク・ティル・ドーン」、そして「スパイキッズ」みたいなファミリー向け映画まで、様々なジャンルの作品を撮っている。それはロドリゲスが実にたくさんの映画を観てきて、好きな映画も多種多様な時代やジャンルに渡っていたためだろう。だから映画監督になってからも、常に異なったスタイルの作品を撮り続けているのではないかと思う。そんな彼の最新作「プラネット・テラー」は、ホラー映画への情熱のありったけを注ぎ込んだ作品である。
物語の舞台はテキサス。化学兵器で人間がゾンビに変身し、生き残った人々を襲い始める。次第に追い詰められた主人公たちが取った行動とは...。
「28日後...」「ドーン・オブ・ザ・デッド」以降、ホラー映画には動きの素早いゾンビが登場するようになった。しかし本作では、ゆっくり歩く昔ながらのゾンビが登場する。おそらくロドリゲスは、ジョージ・A・ロメロ監督作「ゾンビ」に出てくるような古典的なゾンビ映画を再現しようとしたのだろう。しかもゾンビが銃で撃たれる場面は必要以上にやたらと血しぶきの量が多い。明らかにこれは、ホラーマニアへの"大出血サービス"だ。
「プラネット・テラー」にはクェンテイン・タランティーノ演じる変態兵士や、ある"モノ"を収集する科学者など、常軌を逸した特異なキャラが登場する。しかし何と言っても極めつけは"片脚マシンガン・レディー"だろう。「死霊のはらわた2」のように、失った腕に武器を装着するキャラは過去の映画にもいたが、脚に銃を装着させたケースはほとんど前例がない。美女が脚に装着したマシンガンを撃ちまくる場面は壮快で、文句なくカッコいいのである。オープニングのノリのいい音楽から始まり、美女、ゾンビ、血しぶき、爆発、そしてマシンガン!荒唐無稽でくだらないが、ホラー映画ファンには大満足なエンターテイメントである。ロドリゲスには、これからも映画への情熱の炎を燃やし続けてほしい。こんな"マジメにふざけてる映画"を撮れるのはロドリゲスしかいないのだから。

      

『プラネット・テラー in グラインドハウス』by 湯原史子(2006年4月期実践コース修了生

"本気の遊び心″満載、ロドリゲスワールド!


「デス・プルーフ」に続き、「グラインドハウス」に欠くべからざるもう1本の"片割れ"映画が公開されました。その名も「プラネット・テラー」。
ロバート・ロドリゲス監督が、B級映画に対する生真面目なまでの思いを惜しみなく注ぎ込んだ作品となっています。存在しない映画の予告である「ニセ予告編 ( fake trailer)」で始まったり、映画の途中で画面が突然暗転し「この場面のフィルムを一巻分紛失」と人を食ったテロップを出したり、当時を知らない人でも70年代アメリカ映画のいかがわしい雰囲気を味わえる作品になっています。
劇場で見る予告編は本編鑑賞前の心のウォームアップに必要不可欠なものですが、ニセ予告編で70年代アメリカの安劇場的雰囲気を作り出すという粋な計らいには嬉しくなりました。ロドリゲス映画の常連ダニー・トレホを主演に据えた「マチェーテ」というアクション映画の予告編は、思わず公開日を調べてしまいそうなくらい"いかにもありそう"なリアルさで、出色の出来栄え。
主人公カップルも、"まっとうな"B級映画の香りが漂うツボを突いたキャスティングでした。先日ロドリゲス監督がヒロインを演じた女優と婚約したことを知った時も、監督がこの映画へ抱く気持ちの深さと愛情を改めて感じたものです。内容はといえば、デス・プルーフをはるかに上回る過激な映像が満載。ギターケース仕込みのマシンガンを世に出したロドリゲス監督の面目躍如とも言うべき、脚に装着されたマシンガンによる乱射シーン壮観のひと言です。予想通りのありがちな展開も、予想を超えた仰天シーンもすべて観客を楽しませようというサービス精神に溢れていて最後まで目が離せません。
「グラインドハウス」は夢の競作です。願わくは池袋の新文芸座や上野のスタームービーといったような老舗の名画座のシートに身を沈め二本立てで鑑賞できれば、タランティーノ、ロドリゲス両監督ファンにとって至福の時となるのではないでしょうか。

      

『プラネット・テラー in グラインドハウス』by 山田裕子(2007年4月期基礎Iコース修了)

最も過激で最もやさしい女性映画


ロバート・ロドリゲスが実は「女性にやさしい映画」を作る監督だったことに、この映画を観て初めて気がついた。血と内臓がこれでもかと画面を飛び交う中、ひとクセもふたクセもあるキャラクターが繰り広げる荒唐無稽なこのアクション劇を見て、世の映画評論家たちは、間違ってもこの映画を女性にはオススメしないだろう。しかし私はこの映画で不覚にも涙してしまった。あまりのバカバカしさにお腹がよじれるほど笑って出た"笑い涙"であると同時に、ロドリゲスに対する、女性としての"感謝の涙"でもあったのである。そういえばロドリゲス監督作品で、同じく人が死にまくるおバカアクション&スプラッター満載映画「フロム・ダスク・ティル・ドーン」でも、ジュリエット・ルイスがいい味出してたなぁ...。
「プラネット・テラー」のヒロインであるゴーゴーダンサーのチェリーは、恋人と別れたばかり。毎夜のショーで得意のダンスを披露しても、劇場の支配人にはちっとも気に入ってもらえない。ゾンビとの死闘が始まるその日まで、惨めでちっぽけな自分の存在を嘆く日々を送っていたのである。シチュエーションこそ違え、この種の焦燥感は女性なら誰もが一度は味わったことがあるのではないだろうか。やがてゾンビに片脚を食いちぎられながらも絶望することなく、義足代わりにマシンガンを装着して戦い続けるチェリー。そんなあり得ない状況の中で命をかけて奮闘するヒロインを、私たちはいつしか心の底から応援するようになる。ロドリゲスはそういう私たちの思いに、最高にハチャメチャな、そして最高に爽快なエンディングで応えてくれるのである。そんなわけで私は、恋に仕事に悩みつつ、愛されメイクと可愛い巻き髪でがんばっている女性たちにこの映画をオススメしたい(ただし、スプラッター系ホラーもケラケラ笑って見られるたくましい女性に限る!)。理想どおりにいかないことばかりの日ごろの鬱憤を、チェリーがマンガンでブッ放してくれるに違いない。

      

『デス・プルーフ in グラインドハウス』by 山田裕子(2007年4月期基礎Iコース修了)

刺激的な退屈を味わおう!


「グラインドハウス」とは、1960~80年代、アメリカの至るところに存在していたという場末の映画館のこと。そこではバイオレンスとお色気が売りの安っぽいB級映画が2本立てや3本立て上映されていました。当時はきっと、映画のサウンドトラックを子守唄がわりに、多くの観客が毎夜のように大イビキをかいていたのでしょう...。そんな"「グラインドハウス」ムービー"の魅力をたっぷり教えてくれるのが、クエンティン・タランティーノ監督の「デス・プルーフinグラインドハウス」。タランティーノがスクリーンの裏でニヤけているのが目に浮かぶ、痛快な"おバカ映画"です。
バーで夜遊び中の女の子たちが、「耐死仕様(デス・プルーフ)」のスポーツカーを駆る男(カート・ラッセル)に出会い、彼女らのうちの一人が男の車に乗り込んだ時、彼の恐ろしい素顔が明らかになる...。これが物語の「はじまり」ですが、コトが起きるのは開始から1時間後!それまでは、極めてどうでもいい内容のガールズトークが延々続きます。しかし、全体のうちかなりの割合を占めている、一見ムダに見えるシーンこそが、この映画の醍醐味。そこで噛み殺したアクビの数だけ、その後に続く悲惨なショック映像、CGなしの迫力のカースタント、そして空いた口の塞がらない衝撃のラストまでを、お腹いっぱい楽しめるのです。"The End"のテロップが出るその瞬間をお楽しみに!在りし日の「グラインドハウス」にいる気分で床じゅうにポップコーンを撒き散らし、前の席をドカドカ蹴って大はしゃぎしても、誰も怒らないはずですよ(保証はしませんが)。

      

『デス・プルーフ in グラインドハウス』by 湯原史子(2006年4月期実践コース修了)

カート・ラッセル VS スタントガール


なんとも嬉しい"「B級」温故知新映画"が公開されました。
デス・プルーフ(耐死仕様)を施した愛車で無差別殺人を繰り返す男と、その標的となってしまった女性たちの攻防が描かれた作品です。前半では主人公の1人であるスタントマン・マイクの極悪非道ぶりや、愛車のデス・プルーフたる由縁が執拗にかつ無情に描かれます。後半に入ってスタントマン・マイクは新たな標的を見つけて目的を果たそうと試みますが、今度は相手が一筋縄ではいかない女性たちだった...という展開。ストーリーも見事なまでに「B級」的な荒唐無稽さを踏襲していて、観る前からワクワクしてしまいます。
「B級」とは言っても、娯楽映画としての質は低いどころか第一級品。何といっても主演は『ポセイドン』のカート・ラッセルです。過去の栄光にすがって生きるスタントマンを、衝撃の結末にも同情の余地を残さないほど気持ち悪く演じきっています。後半の女性陣には、「キル・ビル」でユマ・サーマンのスタントを担当したゾーイ・ベル、「レント」のトレイシー・トムズが出演。アクションシーンでは惚れ惚れするようなカッコ良さを見せてくれています。最大の見所といえば、カート・ラッセルと彼女たちのカー・チェイスに尽きるのではないでしょうか。
監督カラー満載で大満足の一作となりました。ただし若干ながら残酷描写もありますのでホラー系が苦手な方には不向きかもしれません。タランティーノファンならずとも「B級」調がお好きな方ならビール片手にぜひ楽しんでもらいたい作品です。

      

『デス・プルーフ in グラインドハウス』by 鈴木純一(2005年4月期実践コース修了)

B級映画復活プロジェクト~リアル・アクション再び


[ B級映画復活プロジェクト「グラインドハウス」 ]
クェンティン・タランティーノが脚本を書いた「トゥルー・ロマンス」にこんな場面がある。クリスチャン・スレイターが、観客の少ない寂しい映画館で千葉真一のカンフー映画3本立てを観ているシーンだ。このような映画館はアメリカでは"グラインドハウスと"呼ばれていた。"グラインドハウス"とは1960~80年代にアメリカの場末に多く存在していた映画館で、そこではアクションやホラー、カンフー映画など、猥雑でパワフルなB級映画が2本~3本立てで上映されていた。「デス・プルーフ」「プラネット・テラー」は、グラインドハウスで上映されるような映画を再現したプロジェクトである。

[ GOGO タランティーノ! お楽しみはこれからだ ]
「デス・プルーフ」は、タランティーノ作品の特徴である本筋と関係ないおしゃべりや、監督自身が好きな映画への愛情が爆発している。まずは女の子3人組が登場し、ドライブしながら会話をする。次にバーで飲みながら、彼女たちはさらに会話を続ける。物語とは関係ない会話が延々と続くのだ。そろそろ聞き飽きたと思ったところで、カート・ラッセル扮するスタントマン・マイクが現れ、恐ろしい展開に急変する。
場面は変わり、別な女の子4人組が登場する。そこでまたガールズトークが始まるのであるのだ。「またか!」と思うが、会話の中で過去の映画についてこんなセリフがある。「今の映画だとカーチェイスはCGで撮影しているが、昔はスタントマンが体を張って危険なアクションに挑戦していた」、「『バニシングIN60』は傑作だった。アンジー(アンジェリーナ・ジョリーのこと)が出ていた、つまらないリメイク版(「60セカンズ」のこと)じゃなくてね」。最近のCGまみれのアクションに不満のある映画ファンにとって、溜飲が下がる言葉だ。
そして再びスタントマン・マイクが現れ、激しいカーチェイスが始まる。ここでのカーチェイスは、先の会話にあった"CG抜きの本物のアクション"が繰り広げられるのだ。そして物語は衝撃的な"The End"を迎える。
グラインドハウス映画はタランティーノにとって格好のジャンルだったと思う。それは今まで彼が撮った作品は常に「猥雑でパワフル」だったからだ。「デス・プルーフ」はタランティーノでなければ撮れない傑作である。タランティーノには、このまま突っ走ってほしい。予定調和で終わらない過激な映画を作り続けてほしい。タランティーノがいる限り、お楽しみは終わらない!

      

『デス・プルーフ in グラインドハウス』by 藤田庸司(翻訳センタースタッフ)

DJ・タランティーノのスピード感覚


クエンティン・タランティーノの映画について考えるとき、僕はいつもクラブDJを連想する。自分の好きな曲を愛情とスキルでつなぎ合わせ、独自のグルーヴを生み出し、オーディエンスを楽しませるクラブDJ。タランティーノは映画界という巨大なクラブのDJだと思う。
「レザボア・ドッグス」、「パルプ・フィクション」、「キル・ビル」、彼は幼少の頃より見続けてきた愛すべき名画のエッセンスを巧みにミックスし、ジョーク、セックス、バイオレンスなどで味付けすることで、クールでスタイリッシュな作品を作り上げる。その名人技は3年ぶりの新作「デス・プルーフinグラインドハウス」でも健在であった。さらに今回は"スピード"という、これまでのタランティーノ映画にはなかった要素が盛り込まれ、進化さえ感じるほどだ。
作品名にある"グラインドハウス"とは70年代にアメリカで流行った、B級映画を3本立てなどで上映していた映画館のこと。劇中のファッション、音楽、セリフ、カメラワーク、役者(カート・ラッセルファンの方、スミマセン...)など、至るところに"B"へのこだわりが感じられ、その徹底振りたるやあっぱれだ。これぞ「A級の輝きを放つ、究極のB級映画」である。とはいえ、字幕翻訳者という立場からして気になった点が一つ。タランティーノ映画ではおなじみの、ダラダラとくだらない会話が続く例のシーン。流れを作るものが"会話"なだけあって、シーンを生かすも殺すも字幕翻訳者の腕にかかる。今回はイマイチ。やはり、クールに決められるのは、今のところN・T氏しかいない。

      

『クラッシュ』―「自分は善人だ」と言うのなら、この映画で真の姿を見よby 村山美穂子!

中国の思想家、孔子の言葉を連ねた本を何気なくめくってみた。そこには、人間ならば当たり前とも言える常識的な行いが、「教え」として綴られている。
しかしその言葉を目にした途端、胸が締め付けられ、心に何かがチクチク刺さるような鋭い痛みを感じた。自分の欠点を、未熟であるがゆえに封印していた弱点を、ズバッと指摘されたからだ。
孔子の言葉は、私に「自分自身を見つめ直せ。悔い改めよ」と囁く。普段忘れていた、否、あえて目をつぶっていた自分の行いに向き合いなさいと背中を押してくれるのだ。

最近は「自己啓発本」と呼ばれるジャンルの本が良く売れているらしい。優れた自己啓発本は、読み手を励まし、やる気を起こさせてくれるのが特長だ。しかし時には、読み手を遠慮なく攻撃し、弱った心に正論で追い討ちを掛ける。結果、さらに落ち込んでしまうこともある。
しかしそんな時は大概、自分にとっての真実が語られている。「痛いところをついている」のである。等身大の自分と向き合うという行為は、辛いのだ。

2006年、第78回アカデミー賞で、大方の予想を覆して作品賞を受賞した「クラッシュ」。前年の作品賞「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本で一躍注目を浴びたポール・ハギスの監督デビュー作品である。
舞台はロサンゼルス。車の"クラッシュ"(衝突)が発端となり、様々な人間同士の"クラッシュ"が引き起こされる。衝突は同時に、人種や職業の違いから生まれる偏見や差別といった、人間の負の感情を呼び起こしていく。

この映画は、私たちの心にある痛いところついている。否、そんな表現は生ぬるい。私は、知りたくなかった自分の心の闇をえぐり出され、目の前に突きつけられた気持ちになった。

人種差別、偏見による差別は絶えない。それは、異種なるものが共存する難しさを物語っている。
しかし実際にはどうか。映画の舞台となるロサンゼルスという街では、異種なる人間同士が接触する機会はほとんどない。それぞれが個別のコミュニティーを結成し、自然かつ意識的にその範疇で快適に生きる術(すべ)を探す。同じ大都会でも、地下鉄やバスが重要な役割を果たしているニューヨークとは違い、車社会のロスでは、異種なる人同士が接近する場すら無い。
街を移動していても、車という個室で、自らを閉ざす街、それがロスだ。
しかし、いったん車の衝突事故が起これば、そんな鎧は一瞬のうちに破壊される。丸裸となった異種なる人間同士の、鈍く重い衝突音が響き渡る。

異種なるものへの嫌悪感や偏見は、普段はベールの下にある。"人種差別は好ましくない"、そんな美しい観念で、多くの人が武装している。しかしそんな鎧はあっけなくはがされる。例えば複数の人種が衝突した瞬間にそれは起きる。

この映画に「解決策」の提示など、無い。しかし誰もが苦しむ姿がある。解決へと努力する人間も登場する。それでも世の中は、変わらない。それが現実だ。

10年以上前になるが、私はアメリカで数年暮らしたことがある。滞在4年目になって、「人種差別」の存在を実感した。言い様のない嫌悪感が湧き上がってきた。
それは、私自身への嫌悪感である。自分が他の人種に対し、偏見や差別的な感情を、知らず知らずに抱いていたことに気付いたのだ。
異種な者が混在する社会で暮らしていく難しさを知り、差別や偏見などとは縁が無いと思っていた自分が、いつの間にかそれらを抱いていたという現実。
そんな現実から逃げるかのように日本に帰国した。

しかし、アメリカで暮らしていなければ、私は人種差別を行うような人間や社会を、口先でただ批判するだけだったかもしれない。体験したから見えた"自分の姿"があったのだ。

そして日本は今、多種多様な人種が共に暮らす国へと移りつつある。この映画は決して「よその国の特別な話」ではない。

人種や階級だけではない。性別や外見、自分とは異なるあらゆるものに対し、人は無意識に差別的な感情を抱く。
「自分は違う」と、あなたは言うだろうか。
「自分は善人である。そんな感情は抱いたこともない!」と。
かつての私のように。

「おまえは自分のことがわかっているつもりか?何もわかっちゃいない」。
悪徳警官を演じるマット・ディロンが、新米の"善人警官"に吐き捨てたセリフだ。

見終わった後は、重苦しい気分に苛まれるわけではない。そこには、微かな希望が描かれている。善人にも悪しき心が無いとは言い切れないように、どんな悪人にも善い心が無いとは言い切れない。それこそが真実であると願いたい。(了) (2006.3)


村山美穂子●むらやま みほこ
映像翻訳者。2002年、日本映像翻訳アカデミー・実践コース修了。主な作品にアニメ「スポンジ・ボブ」(吹き替え)、情報番組「ビデオファッションNews」など。

      

愛なくして映画は語れない!『LOVERS』はジャンルを超えた秀作だ by 村山美穂子

「あなたの好きな恋愛映画は何ですか?」――。

よくありがちなそんな問いかけに、ふと立ちすくむような思いをした。
好きなマフィア映画は?と聞かれたら「「ゴッドファーザー」ね!」、冒険映画なら「ズバリ「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」よ!」と、難なく即答できる。しかし恋愛映画は?と問いかけられると、「"恋愛映画"ってそもそも何なの?」という大きな疑問で、私の思考は立ち止まってしまう。
恋愛映画というジャンル。'恋愛モノの大作'と言われる「タイタニック」には、確かに恋愛ドラマが描かれている。しかし、見方を変えれば冒険映画とも、パニック映画とも呼ぶことができる。それに対して'人間ドラマ'として大ヒットした「フォレスト・ガンプ/一期一会」には、主人公の出会った人々に対する一途な愛が描かれていた。これは十分、恋愛映画と言えるはずだ。
人間を描けば必ずそこに愛は存在する。愛を描けば必ずそこにドラマが生まれる。つまり、あらゆる映画に愛は溢れ、どんな映画でも恋愛映画に成り得るのではないか。

チャン・イーモウ監督作、アンディ・ラウ、チャン・ツィィー、金城武が出演する「LOVERS」。劇場公開時に大きな話題を呼び、新春にビデオ・DVD化される作品だ。中国唐の時代、武術の達人である男女3人が戦い、罠を仕掛け合う。同じくチャン・ツィィー出演のアカデミー賞作品賞ノミネート作「グリーン・デスティニー」や、同監督の前作「HERO」では、ワイヤーアクションや映像美が注目され高く評価された。今回の「LOVERS」でもそんなアクションや映像美に観客は圧倒される。
しかし、これを単なるアクション映画として期待した観客は、そこに描かれた"愛"の重さに面食らったに違いない。

愛を犠牲にし、戦う使命に生きた男と女。そして'無条件の愛'の存在を知らなかったもう1人の男。長年育んできた愛と、一瞬にして生まれた愛が、そこにはある。
愛を捨て、己の使命のために命を捧げるか、使命を捨て、命をかけた愛に生きるか。そんな選択を迫られる女の姿が胸を打つ。風の吹く森で男と別れ、女は独り、黙してその場所にたたずみ続ける。微動だにしない女。観る者には重く、長く感じられるシーンだ。でも、女にとって、その時間はまさに一瞬であった。ほんの一瞬で、道を決めなければならない・・・。

女はその時どう考えたのだろう。私は、何も考えられはしなかったのだろうと思う。できることはただ、自分に正直になること、それだけだ。
女の決断が、男2人のその後の人生をも決定づける。お互いがお互いを愛するが故のそれぞれの決断。体を覆う鎧を脱ぎ捨て丸裸になった時に初めて、愛に真っ向から向き合うことができたのだ。

それぞれが決断を迫られる静寂の時間、私の目からは涙が溢れ出た。誰しもが生きていれば避けることのできない決断の時。決断の善し悪しは、後にならなければ分からない、神のみぞ知る運命である。それならば、自分の本能と心の声に正直でありたい。愛を犠牲にするより、愛のために我が身を犠牲にしたい――。そんな、人間の心のどこかに眠っている情熱を呼び起こすパワーがこの映画にはある。

しかしこの作品を、「三角関係の陳腐な愛を描いた陳腐なストーリーだ」と批評する声もある。だが、私はこう言いたい。「傍(はた)から見れば、どんな愛も身勝手で、愚かで、陳腐なもの。そんな愛のために人の人生は大きく左右される。それこそが古今東西の常なのだ」。愛の本質に目を向けさえすれば、この作品の登場人物の心情に深く入り込むことは、決して難しいことではない。

中国語の原題は「十面埋伏」(四方八方に伏兵がひそんでいるという意味)。それをわざわざ「LOVERS」とすることで、これは"恋愛映画"なのだということを事前に認知させ、幅広いファン層を取り込もうとする映画配給会社の意図がうかがえる。壮絶なアクション・シーンを期待していた観客への配慮なのかもしれない。
しかし、饒舌な謳い文句でいかに飾り立てたとしても、映画の本質は何も変わらない。観る者が"愛"に素直であろうとすれば、多くの映画は'恋愛映画'になり得るが、そうした気持ちがない人にとっては、半端な駄作になる。そういうものではないだろうか。


村山美穂子●むらやま みほこ
映像翻訳者。2002年、日本映像翻訳アカデミー・実践コース修了。主な作品にアニメ「スポンジ・ボブ」(吹き替え)、情報番組「ビデオファッションNews」など。

      

『キッチン・ストーリー』

難儀な人々と仲良くなるヒント by 小野 暢子

シャイで口下手な人間は、けっこう人生に難儀する。自分の気持ちを伝えるのが難しい。ときには誤解も受けたりする。面接には通らないし、結婚だってままならない。その上、モヤモヤした気持ちをどうにかして表わそうと、ついひねくれた子どものような行動を取ってしまったりするのだ。

ノルウェー映画「キッチン・ストーリー」には、そんな人生を過ごしてきたであろう一人の老人が出てくる。素朴で無口な田舎者。典型的なノルウェー人の性格だ。時は1950年代、その老人は、隣国スウェーデンの研究所が大々的に実施する"独身男性の台所での行動をデータ化し、近代的なキッチンの開発に生かす"という、妙なマーケティング調査の被験者に応募した。協力者には'馬'が与えられるという宣伝に惹かれたのだ。しかし、馬は馬でも実はただの置物。おかげで老人は、スウェーデンから派遣された中年男性の調査員に対してすっかりへそを曲げてしまう。無口な人間がへそを曲げると、周りの人間まで難儀させられる。普通の頑固な老人なら「気にくわん!帰れ!」と一喝でもしようものだが、老人はひたすら黙してドアを開けない。調査員がどうにか家に入ってからも、無視して意地悪する。無言の抵抗...。一方、調査員の方は「被験者と話をしてはならない。関係を持ってはならない。そこに存在していることを主張してはならない」という鉄則があるから、キッチンの片隅でメモを取りつつ、ひたすら耐えるのみ。映画の前半は、二人の無言の攻防が見所だ。

その'無言劇'が素晴らしい。台詞に頼らないイジワルとイタズラ、それでいてユーモアに満ちた演出に脱帽! 自ら脚本を手掛けたベント・ハーメル監督は、たぶん意地のワルいヤツだ。調査員を一人残して部屋を出る時に電気をパチリと消してしまうシーンなど、自分がもしされたらかなりイヤ~な気分になりそうな嫌がらせの連続だ。
しかし、ノルウェーの名優、ヨアキム・カルメイヤーが演ずる老人からは、茶目っ気が滲み出ていて、どうにも憎めない。チョコレートを美味しそうに食べるところを見せつけてのぞかせる満足気な表情は、「あんた、小学生か!」と突っ込みを入れたくなるほど。大爆笑というのとは違うが、ニヤリとさせてくれる。
嫌がらせを繰り返しても、観る者に不快感を与えないのは、茶目っ気のせいだけではない。老人がほんとは調査員のことを嫌いではないということが、ジワっと伝わってくるからだ。「本当は仲良くなりたいんだよ。でも、体は八つ当りしちゃうんだ」―
―口下手な人にとって、初対面の人と打ち解けるまでの道のりは、なんと難儀なことだろう。まあ、遠回りはしたが、二人のおじさんは少しずつ仲良くなっていく。果たして、そんな二人に何が起こるか?昨今の昼メロにも負けない厄介な展開に、どうにもハラハラさせられる。

もし、身近に'嫌がらせをする無口な人'がいたら、すぐに見限らないでじっくり観察してみよう。ひょっとするとその人は、あなたと仲良くなりたい気持ちに、自分でも気づいていないだけなのかもしれない。難儀だけど憎みきれないどこにでもいる人々、彼らと仲良くなるヒントは「キッチン・ストーリー」の中にある。

※東京では6・7月に単館上映された作品。DVD発売を待て!


小野暢子 Nobuko Ono
日本映像翻訳アカデミー 基礎コース修了生。
現在は派遣社員。近い将来、実践コースに進学意向。
一介の映画好き。ライバル:おすぎ




      

「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」

××なオトナには、ちょっと難解?
「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」(全国で公開中)

by Mihoko Yamamoto

"果たして、このスピーディーな展開を、子供たちは理解できるのか?"――大人気シリーズの3作目となる「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」を観終わった時、ちょっと心配になった。

実は、2作目の「ハリー・ポッターと秘密の部屋」でも湧き上がってきた疑問があった。それは、"このおぞましい映像を、子供たちに見せていいのか?"というものだ。襲いかかってくる無数の凶暴な巨大蜘蛛たち、蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛...。思わずスクリーンから目を背けてしまったのは、私だけではないはずだ。その夜、「映画を観た子供たちは、あの映像がまぶたの裏に焼きついているだろうなぁ。夜泣きしてないかなぁ」と、心配になった。何を隠そうベットで泣きそうだったのは、私の方だったのである。

さて、3作はどうか。恥ずかしながら2作目の時と同様に、私は、子供たちの心配をしている場合ではないのである。ストーリーを完全に理解できなかったのだ。原作を読んでいないからだろうか? いや、原作を読まなければ理解できない映画なんて、あったらいけないのだ。もちろん、製作者だってそう思っているはず。誤解のないように言えば、映画全体としては、決して複雑な構成ではない。そう感じるからこそ、「マトリックス」シリーズのように、「この世界観は説明なんてできないよ。でもまぁいいや!」とまで諦めきれないし、開き直れない。

後でじっくり考えて気づいた。鍵となるシーンの字幕の1、2枚を見過ごしてしまったのが、最大の原因だったのだ。オープニングから息をもつかせない奇想天外な事件の連続、スピーディーにリズム良く展開する物語。観客は否応なくその世界に引き込まれていく。しかし、あまりの急な展開に、私の理解力は追いつかない。「えっ?待って待って。それってつまり、えっとーっ...」。脳みそがオーバーヒート寸前になる。そんな一瞬に、後から考えてみれば、物語を読み解く鍵となる大事なフレーズの字幕が、サラリと流れていたのである。

そのことに気づいたのは、終演後に興奮が冷めて、いっしょに観た連れと話し合っている時だった。連れというのは、普段は映画の細かな部分までもチェックする人。ヴィン・ディーゼル主演の「トリプルX」を観た時などは、「潜水艦の名前の字幕、間違ってたよ。あれは小説「白鯨」をもじってるんだから'アハブ'じゃなくて'エイハヴ(船長)'だよ」なんてツッコミを入れるほどだ。なのに、今回は私と同
じように混乱して、私とは別のところで字幕を見落とすミスを犯していた。お互いが勝手に、違うようにストーリーを解釈していたから、「理屈が合わないねーっ」なんて話していたのだが、二人の記憶をつなぎ合わせると、それなりに筋が通ってきたのである。

素直な感想を問われれば、「最高に面白かった!」としか言いようがない。ジャンルは異なるが「マトリックス」シリーズや「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズのように、「つながりや関係性がわからない部分もあるけど、まっ、いいか!」といった感覚で楽しんだ方がいい映画は、最近多いような気がする。もちろん、原作をじっくり読み込んでいる人なら、また違った楽しみ方ができるだろうし、そうでなくても、
想像力豊かな子供たちなら、字幕を見逃そうと何だろうと、大いに興奮し、夢を広げることができるだろう。そんな心配をしたくないなら、始めから思い切って「吹き替え版」を選ぶ、という手もある。'映画好きのオトナ'ならではの「何が何でも字幕版。映像も字幕も、端から端まで理解してやろう」という先入観が、この映画の楽しみ方には合わないのかもしれない。

シリーズ3作品の中でも最高傑作と評判の高い本作である。 細かな展開を理解し切れなかったとしても、ワクワク・ドキドキできることは間違いない。終演後のロビーでは、おそらく「吹き替え版」を観たのであろう小学生の男の子5人組が、グッズやパンフレットをうれしそうに買い求めていた。そう、楽しければいいのだ、このシリーズは! (2004.7)

山本美穂子●やまもと みほこ
映像翻訳者。2002年、日本映像翻訳アカデミー・実践コース修了。主な作品にアニメ「スポンジ・ボブ」(吹き替え)、情報番組「ビデオファッションNews」など。

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