発見!今週のキラリ☆

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5月のテーマ:光

それが映写機からスクリーンに投影されたものであれ、コンピューターのモニター上に映し出されたものであれ、映像が錯覚と残像による"見せかけの運動"で、現実の世界を模写し複製した"コピー"であることに変わりはありません。
そして映像がそのような光のトリックによって成立する本当は存在しない幻影だとすれば、私たち映像翻訳者が日々向き合っている"映像に伴われた言葉"の扱い方が通常の言葉よりも少なからずトリッキーなものになったとしても、さほど不思議なことではないでしょう。

例えば同じ漢字や平仮名を何度も繰り返し書いたり長時間凝視したりすることで生じる認識の混乱(文字の構成パーツがバラバラになって何か別の文字や模様などに化けて見えるアレですね)はゲシュタルト崩壊と呼ばれ、知覚や心理の研究においても謎の多い現象とされています。
「そうそう。あのえも言われぬ妙な感覚を味わいたくて、たまに同じ文字をじっと見つめることがある」という人は案外多いのではないかと思いますし、かく言う私もその1人だったのですが、映像翻訳の仕事に関わるようになり、誤脱(誤字脱字)チェックがほぼ日課となった今ではそれほど悠長なことも言っていられなくなりました。

さすがに「この漢字で合ってるんだっけ?」とか「これって"ら"だよね?違う?"ち"?」とかいう激しいレベルでのゲシュタルト崩壊に毎日さらされているわけではないにしろ、チェック中に何気なく通り過ぎた字幕の文字にほのかな疑念を覚え、あわてて視線を戻す場面には割と頻繁に出くわします。
また誤脱チェックでは、"間違った文字が混入した文章であるにもかかわらず支障なく意味を了解してしまう"という「逆ゲシュタルト崩壊」ともいうべき危険な落とし穴があちこちで口を開けて待っていて、そのことがこの仕事をさらに困難に、同時に非常にやり甲斐のあるものにしていると言えなくもありません。

そういう危険な刺激に満ちあふれた仕事に明け暮れる毎日の中で、ふとした瞬間に頭をよぎるのは、私たちはこのゲシュタルト崩壊=全体性喪失の危機に、文字だけでなく文章の単位でも直面しているのかもしれないという思いです。
実際、言語的には誤りなく翻訳できているはずなのに、映像とマッチする表現を探すために何度も繰り返し同じカットを再生して見ているうちに程なくしてワードチョイスや文章構成、果てはニュアンス解釈までもが、まるっきり見当違いなのではないかと思えてきてしまい血の気が引く、という経験は皆さんも1度や2度ではなくお持ちなのではないでしょうか。

そんな時、私はよく、昔どこかで聞きかじった"Fair is foul, and foul is fair"(きれいはきたない、きたないはきれい)という一節を思い出します。
『マクベス』は未だにあらすじしか読んだことがない上にその内容の記憶すらおぼろげなのでシェークスピアがそこに込めた真意は不明ですが、どうやら私は、謎めいた響きを持つこの言葉に、勝手に勇気づけられているようです。

つまり「きれいときたないは対立する二項ではないし、価値の転倒を待っているわけでもない。そもそも、きれいときたないに区別なんてない。どっちともただの言葉だ」、だから「ゲシュタルトが崩壊したって別に大したことじゃない。そんなに気を落とすな」と、何となくそんなことを言われている気がするのです。

ここに、ランプシェードの光で照らされたある部屋の出来事を年配の男性が"In a lowly lit room, the other night..."と回想するシーンがあったとします。
そのセリフにあてる日本語は「あの夜 薄明かりの部屋で...」と「あの夜 ほの暗い部屋で...」とでは、一体どちらがふさわしいと思われますか?

どちらを選ぶにしても、その答えを導き出すために考えなければならないのは、必ずしも"明かるい"と"暗い"という言葉の意味だけではないと、皆さんにはお分かりいただけるでしょう。

そこに明るくも暗くもあり、暗くも明るくもないランプシェードの光があるなら、恐らくその光に目を凝らすことでしか、私たち映像翻訳者は、どんな答えにもたどり着くことはできないのです。
その時、その光が幻影でありコピーであることは、きっと"別に大したことじゃない"のだと思います。