発見!今週のキラリ☆

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vol.92 「一番はじめの言葉」 by 石井清猛


10月のテーマ:先生

何はともあれ、人に何かを教えるという行為において言葉が大きな役割を担っているのは確かなようで、私たちが"教える人"として出会ってきた先生たちの記憶をたどる時、彼らの姿かたちよりも先に彼らが語った言葉が思い出されることも珍しいことではありません。

その一方で、それらの言葉を初めて耳にした当時を振り返ってみるにつけ私たちが改めて思い知るのは、驚きも感動も伴わない自らのドライな態度や、ほとんどスルーせんばかりの素っ気ない反応といった、その場面におけるドラマチックな"出会い感"のあまりの欠如ぶりだったりすることも、割と普通にあり得る話ではないでしょうか。

実際、これまで何ら特別な感慨を呼び起こすことがなかった、何となく知っていた言葉や文章が、突如としてこれ以上ないくらいに大切なものに変わる瞬間というのは、映像翻訳にかかわる皆さんなら恐らく何度も経験していることだと思います。

例えば、たった今翻訳中の作品の中の特定の文脈において「これだけは生かさなければならない」「必ず輝かせなければならない」と気づいてしまった、ある特定のニュアンスがあったとして、そのニュアンスを伝えようとのたうちまわるようにして見つけた表現が、ビックリするほど平易でありふれたものだった瞬間とか。結構ありますよね。

そういった瞬間は、出会うそのたびごとに私たちをあたふたと狼狽させながらも、同時に何かとても豊かで大らかなものに触れた実感を与えてくれるもので、考えてみればこれほど不思議な体験というのもそうそうないわけです。

そして先生から教わった言葉にしても事情はそれほど変わりません。

時が経つほどに染み入ってくるものや、理由が判然としないままずっとどこかにひっかかっているもの、長い間を置いたのちに突然その意味を了解するもの、新たな文脈に置かれて初めて好きになれるもの、逆に嫌いになるもの。

それを"思い出す"と言いえばいいのか"気づく"と言うべきなのか、あるいは"蘇る"なのか、残念ながら私には判断がつきませんが、いずれにしても教わった瞬間だけがその言葉の始まりではないことは確かなようです。
それらの言葉は私たちの中で、きっと幾度となく始まり、終わるのでしょう。

知らなかったはずなのに知っていたと思い出し、知っていたはずなのに知らなかったと気づくことを繰り返しながら、私たちは言葉が蘇り、また始まる瞬間に出会い続けるのです。

「翻訳の基本は、原語で読む人と訳したものを読む人が、同じ情報を同じタイミングで得られること」という言葉を、私は当時代々木八幡にあった教室で深井裕美子先生に教わりました。

ということを、実は、私はかなりあとになって思い出しました。
たぶんそのコースが終わって、さらに1年後ぐらい...(笑)

にもかかわらず、それは私にとっての一番はじめの言葉です。

最初に教わった時に聞き流していた(かもしれない)この言葉は、甚だしく遅れて蘇ってきて、今も私の中で蘇り続けています。
そして、そのたびに私をあの一番はじめの場所に連れ戻してくれるのです。

"原語で読む人"と"訳したものを読む人"の違いも、"同じ情報"や"同じタイミング"の意味も、ちゃんと知っていると信じて、すました顔で座っていたあの場所に。