発見!今週のキラリ☆

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2012年3月 アーカイブ

vol.130 「そのコーヒーブルースはいくらで買えるのか」 by 石井清猛


3月のテーマ:コーヒー

私たちは経験上、曲のタイトルに"ブルース"と謳われることが必ずしもそのままメロディーやアレンジに"ブルースフィーリング"が備わっていることを意味しないと知っています。ブルースっぽくないのにブルースと題された楽曲。そのような歌の1つとして数えられるかもしれない「コーヒーブルース」は、にもかかわらず聴く者を、心地よいけだるさと胸を衝く切実さへと誘い、やがてブルース特有の高揚感で包み込みます。そして作者であると同時に歌い手でもある前野健太の名前を、忘れがたいものにするのです。

独特の芳香を放ち、つややかな黒色を帯びて苦味にかすかな酸味と甘みを隠した飲み物、コーヒーにまつわるエピソードくらい誰でも1つや2つ持っているものです。コーヒーの香りや、甘さや、苦さのおかげで、何かを少しだけ忘れられたり、許せたり、手放せたりした記憶。前野健太はそんな、いつもは大して気に留められることもなく私たちの心に引っかかったままの様々なコーヒー的記憶と、目の前にある乾いた日常を、ブルースで混ぜ合わせろ、とばかりに"僕が欲しいのは 一杯120円のコーヒーブルース"と歌い上げます。その歌声はきっと、私たちの目の前の風景の色を変えていくことでしょう。

とはいえコーヒーとブルースを結びつけたのは前野健太が最初ではもちろんなく、コーヒーはむしろブルースのみならずポップスやロックの歌詞の中で好んで取り上げられてきた題材の1つであると言えます。

すぐに思い浮かぶものをいくつか挙げるだけでも、エラ・フィッツジェラルドが恐ろしいほどの切実さで"コーヒーとタバコに後悔が埋もれてる"と歌った「Black Coffee」、プリンスがヒトデとコーヒーの奇妙なランチを題材にしたサイケデリックな「Starfish and Coffee」、"コーヒー色をした君が大好き"とセルジュ・ゲンズブールがおどけて歌う「Couleur Cafe」など、ちょっとしたプレイリストが大した苦労もなくできあがりそうです。あと同県人のよしみで奥田民生の「コーヒー」(スバリ!)を挙げないわけにはいきません。

前野健太自身が影響を受けたことを公言するアーティストたちも、やはりコーヒーについて歌ってます。サニーデイ・サービスは「青春狂騒曲」で"熱い濃いコーヒーを飲みたいんだ"と歌い、かつて小沢健二が在籍したFlipper's Guitarは「Coffee-Milk Crazy」で"誰が何と言おうと(カフェ・オ・レでなく)コーヒー牛乳を支持する"と宣言しました。さらに「One More Cup of Coffee」で"出発する前にもう1杯だけコーヒーを飲もう"と歌うボブ・ディランがいれば、"100円玉で買える温もり"の缶コーヒーを握りしめた「十五の夜」の尾崎豊もいます。

コーヒーを好きな人も嫌いな人も、コーヒーを飲まずにはいられない人も紅茶にしか興味がない人も、それぞれの人生の中で"コーヒーの歌"が収まるべき小さな場所だけはきっと共通して持っているのでしょう。毎日暴飲を繰り返すあまり、カフェインの覚醒効果をほとんど感じられなくなってしまったという有様の私にしたって、それは同じです。
「コーヒーブルース」はそんな私の"コーヒーの歌"の場所にやってきた、一番最近の歌なのだと思います。

先日前野健太のライブを見るため、同僚2人と連れだって新宿歌舞伎町の風林会館に行きました。長年連れ添ったバンドDAVID BOWIEたちを従え、ゲストにアナログフィッシュと石橋英子を迎えたツアー最終日のライブです。3時間にわたって私たちの心を揺さぶり続けた前野健太の歌を、声を、私は一生忘れることはないでしょう。

vol.131 「罰としてのコーヒー」 by 桜井徹二


3月のテーマ:コーヒー

コーヒーの起源は1500年前のアラビアに遡るという。当時の人々は、甘くて覚醒作用のあるコーヒーノキの実をいろいろな形で食用にしようと試行錯誤を繰り返し、そして飲料にする方法を発見した。苦心して作り上げた香ばしいその飲み物を人類で初めて口にした人はこう思ったはずだ。「なにこれ、苦い!」と。

...というのは勝手な想像だけれど、コーヒーが苦いのは確かだ。ほのかに甘みがあるとか酸味が効いているとか言ったところで、筆頭にくるのが苦みであることには変わりがない。それでも僕たちは毎日のようにその苦い液体を飲み続けている。他にもっとおいしくて飲みやすい飲み物があるのに、考えてみると奇妙なことではある。

かつて、そんな話をコーヒー嫌いの女性としていたところ、彼女がこんなことを言った。「コーヒーっていうのはね、東京中の下水と灰皿の中身でできてるのよ。そういう味だもの。だからみんなは、東京の生活に染まってしまった自分を罰するためにあんなものを飲んでるのよ」

「だけど」と僕は聞いた。「コーヒーを飲むのは東京の人だけじゃないよ。アメリカの人も飲むしブラジルの人も飲む。北朝鮮の人だってたぶん飲む。彼らも東京中の汚れを混ぜ合わせた飲み物を飲んでるわけ?」

「もちろんアメリカ人が飲んでるコーヒーはアメリカ的汚れ、ブラジルの人が飲んでるコーヒーはブラジル的汚れを抽出したコーヒーなのよ」と彼女は言った。

もちろん冗談として言ったのだろうけれど、彼女の言う「東京中の下水と灰皿の中身を混ぜたような味」というのはわからないでもなかった。世の中には時おり、その表現がぴったり当てはまるコーヒーが存在するのだ。なぜそんな形で罰を与えるのかは正直なところよくわからなかったけれど、それでも彼女の意見はなかなか悪くないように思えた。

僕たちは人や物であふれかえった東京での生活の代価として、東京の汚れを抽出したコーヒーを飲む。パリに住む人はパリ的生活の罰として、平壌に住む人は平壌的生活の罰として、ティンブクトゥに住む人はティンブクトゥ的生活の罰として、それぞれの街の汚れを抽出したコーヒーを飲む。世界中のみんながコーヒーを飲んで自らの罪滅ぼしをする。そうすることで、いつもと変わらぬ日々が続けられ、世界は回っていくのだ。

その話を聞いてからは、灰皿の中身のような苦いコーヒーに出会うたびに、「これは罰なんだ。僕がこれを飲むことで世界は回り続けることができるんだ」と念じながら飲むようにしている。あんまり苦いと、世界を救うのをあきらめてしまうこともあるけれど。

vol.132 「800円のコーヒー」 by 浅野一郎


3月のテーマ:コーヒー

大人になったなあと思う瞬間がある。もちろん、年齢的には間違いなく
"大人"なのだが、しみじみと、昔はこんなことはできなかった、大人
になったからこそ、こんなことができるようになったのだな... と、ふ
と感じる瞬間が、コーヒーを飲んでいるときだ。

もちろん、他にもそんな局面はたくさんあって、たとえば街中でタクシ
ーを止め、乗り込んだときに「近くて悪いんですけど」と前置きをした
上で目的地を言うとき。ただ、別に心から、近くて悪いと思っているわ
けでは、もちろんない。
何となく、大人は乗るときにこう言う、という先入観があるだけなのだ
が、これを言った瞬間、いかにも場慣れした大人という気がするから不
思議だ。

要するに、単なるイメージでしかないのだが、コーヒーに関しては、特
に大人と紐付いている場面が多い。喫茶店に1人で入って「アメリカン
」と注文するとき。(「キリマンジャロ」ならば、大人度は格段に高ま
る) しかし、決定的に「コーヒー=大人」という概念が僕の中で定着
したのは、予備校の隣にあった喫茶店に入ったときだ。
そこのコーヒーは、何と一番安いもので800円。しかも、カップは自分
の好きなものの中から選ぶという、何から何まで初めて尽くしの体験だ
った。

必ずしもなくてもいいものに1,000円近くのお金を費やす... しばらくす
れば体外に排出されることが分かりきった液体のために、今までドー
ナツショップで200円程度のコーヒーしか飲んだことのない僕にとって、
かなり決断を迫られる瞬間だった。

そこで飲んだコーヒーの味は残念ながら忘れてしまったし、正直言って、
そこの喫茶店での体験が、その後の人生で鮮烈な印象を持って輝いてい
るわけでもない...
ただ、僕の中で「大人」を感じる時というのが、"無駄なことに時間と
お金を使って、精神的満足を得た時"という定義づけができたことは確か
だ。

というわけで、精神面はどうか分からないが、一応、年齢的に大人にな
った今でも、本を読むのは喫茶店でコーヒーを飲みながらと決めている。
家で読んだほうが快適だし、何よりお金もかからないのに、わざわざ外
行きの服を着て、ある程度のお金を持ち、家を出る。
そして、何杯も飲んだコーヒーで気持ち悪くなりながら、本を1冊読み
終える。あえてその不都合のためにお金と時間を浪費するということに
満ち足りた気分になって帰宅する。

たまに、自分は何と馬鹿げたことをしているのだろうかと思う。でも、
それが無性に面白いし心地いい。よく、若い頃に戻りたいか?と聞かれ
るが、僕は絶対に嫌だと言う。馬鹿げたことができなくなってしまうか
ら。大人は最高だ。