発見!今週のキラリ☆

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2013年2月 アーカイブ

vol.152 「紐づけの方法」 by 藤田奈緒


2月のテーマ:予感

友人になかなかの強運の持ち主がいる。時々、妙にジャンケンの強い人が仲間内に1人はいたりするものだけど、彼女の場合はとにかくクジ運が強い。ビンゴで賞が当たるなんてザラ、たまたま仲が良いという理由だけで、何の関係もない私までその恩恵にあずかった経験数知れず。普段なら手が出せないような高級ホテルの宿泊券が当たり、一緒にスイートに泊まらせてもらったなんてこともあった。

クジが当たるとき、特別な"予感"があるのかと、彼女に聞いたことがある。すると、やはりそれなりに何かを感じるということだった。ほとんどの場合は「なんか当たる気がする」ぐらいの漠然とした感覚らしい。だけど一度、相当な倍率のミュージカルのチケットがその場で当たった時などは、その直前に文字通り、全身に鳥肌が立ったという。

一方の私はというと、そんな強運の友人を持ちながら"運"なんてものとはさっぱり無縁の人生である。いや、そんなことはないか。少なくとも節目節目で、ある程度の運はつかんできたはずだ。その証拠に、これまで何だかんだで楽しく毎日を過ごしてきたし、好きな仕事に就くこともできた。それほど不運とも思えない。そう考えると私の場合、運がないというよりは単に"鈍感"なだけとも言えそうだ。だって「なんかこうなりそう!」と予感が働いた記憶が、過去どれだけ遡っても見当たらないのだから。

考えてみれば、昔からルールを覚えるのが苦手だった。どちらかというと感覚的に物事をとらえるタイプだったから、「○○だから××だ」と理論的にものを考えるクセがまるでないまま、時を過ごしてきてしまった気がする。もう何年も前のことだけど、同僚が「夕食に塩気の強いスープを飲むと、夜中に喉が渇いて困るよね」と言ったのを聞いて、心底びっくりしたことがある。というのも、確かに時々どうしようもなく水ばかり飲みたくなる夜はあっても、その理由なんて考えたこともなかったからだ。でもそれを機に思い返してみれば、喉が渇く夜には、激辛料理を食べていたり、いつにも増してお酒を飲みすぎていたりと、喉が渇くだけの理由が毎回あるように感じた。

例えば悩みを抱えて誰かに相談した時、大抵その相手は自分の過去の経験を基にアドバイスをくれるだろう。つまりその人なりの人生の統計結果から、その人なりの見解を述べてくれる。それと同じように、無意識に日々積み重ねた統計が私たちに"予感"をくれるのかもしれない。

というわけで遅まきながら、2013年の私の抱負は"人生の紐づけ"にしようと思う(ちっとも理論的な話ではないけれど)。あの時の彼のあの一言があったから、私はリンゴ好きになったのかもしれないとか、あの日のあの出会いは、実は今自分が直面しているこの問題を示唆していたのではないかとか、毎日の小さな出来事を1つ1つ紐づけできるようになったら、そのうちそれが私に"予感"を与えてくれるんじゃないだろうか。だとしたら、そうなった時の目の前の同じ人生は、今よりもっと面白おかしく感じられるに違いない。試す価値はありそうだ。

vol.153 「故意の予感」 by 石井清猛


2月のテーマ:予感

日々の仕事の現場において、映像翻訳者が新たな映像を前にして抱く予感とはどのようなものでしょうか。
ひとまずかなり切実だと思われるのは、引き受けた新しい仕事をうまくやり遂げられるかどうか、といった自らのパフォーマンスに関するもので、出端を悪い予感で挫かれるのだけは夢の中ですらご免こうむりたいと念じてはみるものの、相手が"予感"だけにこちらの意図でコントロールをできるはずもなく、そんな時はいい予感でも嫌な予感でもとりあえず甘んじて受け入れて、まずは仕事に精を出すというのが私たちに求められる姿勢ということになります。

もちろんひと口に予感といっても単純にいい悪いで分類すれば済むわけではありません。ともすれば予知や占いさながらにより具体的な細部を伴った予感が、ほのかではあれ訪れてしまう経験は、誰もが一度や二度は覚えがあるもの。さすがに人生が予感のみによって劇的に変わったり、開けたり、終わったりするものではないとはいえ、どうやら、そういった大小遠近様々な予感がもたらす感情や理性のさざ波が私たちの仕事や生活にそこはかとなく影響を与えていることは確かなようです。

例えばある人は何かを予感して帰り道でいつもと違う角を曲がったかもしれない。誰かに言葉をかけ、または言葉をのみ込んだかもしれない。ある人は予感を詩に綴ったかもしれない。ひょっとすると誰かが受け止めた予感が音楽になり、映画になったかもしれない。

それらの予感がやがて起こるであろう現実=未来と結びついていく、もしくは切り離されていく時、私たちは大抵その様子を固唾を飲んで見守るしか手立てがないのですが、一方で私は、人が自分にしか予感できない"何か"を予感してしまう事態そのものにも、強く興味を引かれます。
実際に当たるか当たらないかは別として、私たちは時に思いがけず"現実=未来"の姿を感知してしまうことがあり、誰もが必ずそれぞれのやり方でその予感と向き合うことになるのだとすれば、そこにはその人が生きる世界の形や大きさが反映されているとも言えるのかもしれません。

さて映像翻訳者が新たな映像を前にして抱く予感には、いい原稿に仕上げられるかどうかということ以外にどんなものがあるでしょうか。

例えばこの作品は記録的なヒットを飛ばすかもしれない。後世に語り継がれる名作になるかもしれない。専門家から認められ賞を授けられるかもしれない。見た人の暮らしを少しだけ豊かにするかもしれない。誰かと誰かの人生と結びつけるかもしれない。世界を変えるかもしれない。そして何よりも自分にとって大好きな、かけがえのない作品になるかもしれない。

初めの方で「予感はコントロールできない」と言っておいてなんですが、いい予感が訪れるように少しずつ準備をしておくことくらいは、私たちに許されていてもいい気がします。
この次はきっと、premonitionと一緒にinspirationが訪れますように。