今週の1本

« vol.129 『ヘアスプレー』 by 藤田奈緒 | 今週の1本 トップへ | vol.131 『グリーンマイル』 by 桜井徹二 »

vol.130 『エメラルド・カウボーイ』 by 石井清猛


5月のテーマ:緑

緑という色はしばしば平然と青と呼ばれることがあって、勉強を始めてから日の浅い日本語学習者をときに戸惑わせたりします。「このバナナ青いね」とか「葉っぱが青々と繁ってる」とか。あと「青信号」とか、「青菜」「青っ洟」とか。
緑と青を区別しないのは日本古来の色認識に根ざした表現によるものなのだろうと何となく思っていたところ、どうやらそうでもないらしく、アジアやアフリカの諸言語においても同様の習慣が見られるようです。

さらに、マイルス・デイヴィスの代表作「Kind of Blue」に収録された「Blue in Green」という曲のタイトルの意味を巡り一部でいまだに議論が続けられていることや、ある時点で青と思われていた物が時間の経過と共に緑であると分かった時に果たしてそれが同じ物と言えるのか、という疑問を"grue (green+blue)のパラドックス"と名付けてかなり真剣に考えた人がいたことなどを知るにつけ、緑という色が持つ不思議な両義性の魅力に改めて思いを馳せないわけにはいきません。

自然の瑞々しさを象徴する色であり、人の心を落ち着かせるとされている緑が、大抵のSF映画で、宇宙人の肌や血の色だったりするのはなぜでしょう。映画では他にも、戦争への恐怖心から頭髪が緑色に変わり周囲から迫害を受ける少年の話や、事故で放射線を浴びた学者が怪力を持つ緑色のモンスターに変身する話もありましたね。

このようにオーガニックでナチュラルなイメージと無機質な異物感が同居し"揺らぎ"を伴った緑という色にあって「エメラルドグリーン」という表現の明快さは際立って見えます。
ひょっとしてエメラルドが古来からそこら中にころがっている石であったなら、人間の緑に対する認識は違ったものになっていたかもしれない、そんな気すらしてくるほどに...。

『エメラルド・カウボーイ』は、1970年代に日本から単身コロンビアに渡った早田英志が、エメラルド原石の仲買人"エスメラルデーロ"として身を起し、やがてエメラルドビジネスの頂点に立つまでの自身の半生をセルフプロデュース/主演で描いた作品です。

DVDのカバーにもなっているメインビジュアルで、宝石鑑定用のルーペを通してエメラルド原石を凝視している男性が早田その人なのですが、映画の中でも画面にたびたびとらえられるその視線が放つ鈍い光は、見る者に強烈な印象を残します。
例えばそれは、ライフルを構えて照準を定めようとするクリント・イーストウッドがある瞬間に見せる視線にも似ていて、タイトルに付けられた"カウボーイ"という言葉が、単にエスメラルデーロのロマン主義に由来するのではなく、画面にとらえられた早田英志の動き=アクションが他でもない西部劇そのものであることに起源があるに違いない、と私たちに信じさせるに足るものです。

映画の終盤で早田は、自らの経営するコロンビア・エメラルド・センターの社内で、暴徒と化した組合員の一団と対峙することになります。ある意味、作品中で最も西部劇的とも言えるこの場面において、映画は1つの労働争議が乗り越えられていく様を驚くほどスピーディーに描き出していきます。
"アクション・ドキュメンタリー"と銘打たれたこの作品のクライマックスで映し出される一連の出来事が、事実を忠実に再現したものであれ、あるいは主人公を美化するために過剰な演出を施されたものであれ、私が受け取った大きな爽快感は何ら損なわれることはありません。

その理由は、あの美しくも妖しい緑色の光の塊を射抜く早田英志の視線を何度もとらえた、この作品を見た皆さんならきっとお分かりになるはずです。


─────────────────────────────────
『エメラルド・カウボーイ』
製作総指揮・脚本:早田英志
監督:早田英志 、アンドリュー・モリーナ
製作:アンドリュー・モリーナ、パトリシア・ハヤタ 、エフレイン・ガンバ
撮影:バイロン・ワーナー
出演:早田英志、ルイス・ベラスコ、パトリシア・ハヤタ
製作国:コロンビア
製作年:2002年
─────────────────────────────────